冊子止揚第118号-Ⅲ

この記事は前号から続きます。

《愛は総てを結ぶ帯です》

私はその時まで糖尿病に対して無知で、その恐ろしさも知りませんでした。そのためにお医者さんの言われるままに、何も思わず”つぐと君”を連れて帰ってきました。

数日後、私は兵庫県の舞子に講演で招かれて時を過ごしていました。最後の講演が終わると、止揚学園から電話がかかりました。受話器をとると、保母さんのひきつったような声が耳に響いてきました。
「大変です。たいへんです」
「どうしたんや。何が大変なんや」
私の心臓がドキドキと高鳴りました。
「つぐと君の様子が変なのです」
「どのように変なんや」
「息はあるのですが、意識がはっきりしないのです。すぐに病院に連れて行きます」

つぐと君は病院に着き、しばらくして神さまの側に召されました。私は帰りを急いだのですが、つぐと君の死には間に合いませんでした。今も、(ごめんなさい。通院した時、無理にも入院を頼んでいたら、元気でいられたのに、僕の病気に対する無知がつぐと君の死を早めてしもうた。次に誰かにこんなことがあったら必ず入院をさせるから、ほんまに許してな)と私は彼に、あきお君と同じように謝り続けています。

私は六十一年間を、知能に重い障がいをもつた仲間たちと共に歩んできて、何度失敗をしたことでしょうか。その度に、謝り、(謝ったことを次に行動で示していこう。行動を伴わない謝りや優しい心、愛は空しいものやなあ)と思い続けてきました。
この時の体験は入園している仲間たちの生命を守る私の姿勢がどうあるべきかを教えてくれました。そして、つぐと君が残してくれたものが、今日も止揚学園に活き々々と生きています。

つぐと君が召され、しばらくした時、のぶひろ君が重い腎臓病にかかりました。近くの病院に入院をお願いしたのですが、つぐと君と同じ理由で断られました。私は院長室に行き、入院を頼み続けました。一時間、二時間と時がたちました。かみついたらはなさない「すっぼんの達」の本領発揮です。(つぐと君の二の舞はしたくない)と一途でした。

院長さんは私のねばりに参ったのか、
「わかりました。二十四時間、止揚学園の保母さんに付添いをしていただけるのでしたら入院させましょう」
この言葉を聞いた時、(よかった)と心の重りがとれました。
「ありがとうございます」と私は頭を下げ続けました。
のぶひろ君が入院して、一週間程した時、院長さんから私に、
「病院の勉強会で、止揚学園の心について話をしてもらえませんか」
と電話がかかってきました。
「どうして私に話を頼まれるのですか」と不思議に思い尋ねました。
「実は病人に付添って下さっている止揚学園の保母さんたちが、心を込めて看病されている姿に私たちは感動して、いろいろなことを教えられています。そこで、この病院の勉強会で、福井さんから止揚学園のことを聞こうということになつたのです。よろしくお願いします」
優しい愛から生まれる行動は素晴らしい出会いを創ってくれるものです。この時の勉強会を通した出会いが病院と止揚学園の心の結びつきを強くしてくれました。今、この病院は入園している仲間たちを深く理解し、診察や入院をこころよく引き受けて下さっています。私たちは心から感謝しています。

のぶひろ君も病気が治り、無事に退院しました。神さまの側に行ったつぐと君が自分の生命を捧げて、入園している子どもたちの生命を守ってくれたのです。
このような時は、「ひねくれの達」 でも、素直な気持ちにさせられるものです。
さて、つぐと君が亡くなり、七年が過ぎた時、ふきこさんが十六歳で召されました。
彼女はてんかんという病気を持っていて、とてもかんしゃく持ちでした。 怒り出すと、「ウー、ウー」と大きな声を出し、相手を睨みます。私も何度かふきこさんの感情を害して、叫び声と共に睨まれました。その度に、
「御免、ごめん、怒らんといてえなあ」
「ウー、ウー」
こんな珍問答を繰り返していると、彼女の怒る姿、そして、私の謝る姿が滑稽に見えるのか、側にいた保母さんたちから笑い声が生まれ、その場が明るくなりました。 あの時分、「ふきこさんと毎日、同じ会話を繰り返して、よく飽きませんねえ」
と保母さんたちに言われていました。 《次号に続く》

130816shiyo2

 

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