冊子止揚第118号-Ⅳ

この記事は前号から続きます。

《スター的存在のみちよさん》
今から思うと、(ふきこさんに怒られながら、僕は楽しんでいたなあ。彼女は人を明るくさせる才能を持っていたんやなあ) と懐かしく思えてなりません。

 その日、私は朝四時頃から近くの川に魚つりに出かけていました。この日は大きな鮒がよくつれて御満悦の私でした。

六時頃、止揚学園の自動車が、私が魚つりをしていた川の堤防に止まり、職員の大きな声が聞こえました。
「ふきこさんの様子がおかしいので、すぐに帰って下さい」
「どうしたんや」
「ふきこさんがてんかんの大発作を起こして、お医者さんに来てもらっています。福井さんをすぐ呼んだ方がよいというので、迎えにきました」
職員の声が上ずっていました。(大変なことがおきているんやなあ)と血の気が引いていきました。魚つりどころではありません。

慌ててつり道具をしまって、止揚学園に車を走らせました。
ふきこさんの寝ている部屋に入ると、何人もの職員や保母さんが心配そうな顔をして、彼女の寝床をとり囲んでいました。いつもは笑顔で明るい冗談を言うお医者さんが、真剣な表情でふきこさんを診ていました。 その姿に私は声がかけられませんでした。

一時間ほど経った時、心臓が停止したのです。 必死で人工呼吸をしたり、いろいろな方法をお医者さんがとられたのですが、その緊迫した空気の中に彼女の心臓の鼓動は二度と脈打ちませんでした。  「ふきこさん、ふきこさん」と呼び続ける保母さんたちの声がいつまでも響きました。
あきお君の召された時は両親や家族の人たちが側にいたのですが、つぐと君とふきこさんは両親が遠くに住んでいて、その死に間に合いませんでした。

今も、ふきこさんのことを思い出すと、何となく心が明るくなり、笑顔になる私なのです。そして、疲れた時、苦しみや悲しみを持った時、イキイキと元気になる力を与えてくれています。私は「ふきこさん、ほんまにありがとう。きみと出会ったことは神さまの愛や恵みやなあ。僕が召されてきみの所に行ったら、また、″ウー、ウー″ と怒ってなあ。そして、楽しい会話しょうな」と深い感謝をしています。

1993年5月4日。みちよさんが二十六歳で実家の近くの病院で召されました。
彼女は止揚学園では、ある意味でスター的存在でした。これを書きながらも (何を書いたらよいのかなあ)と迷うほど沢山、彼女のエピソードがあります。そして、二十年前に亡くなったのですが、今でも何かがあると、みちよさんの話がでて笑い声が満ちます。 みちよさんは二歳の時、いろりの火の中に左手を突っこみ大火傷をしました。そのため五本の指が癒着して使えなかったのですが、止揚学園に入園してから、京都の病院で手術を受けました。そして、箸やスプーンが握れるようになりました。

彼女の入園の時の印象は今も強く残っています。手に火傷をしている上に、(ほんまにこの子は生きられるのかなあ)と心配になるほど、六歳なのに身体も小さく、痩せていて「骨と皮だけ」という表現がぴつたりの女の子でした。その上、大小便垂れ流し、食事は手づかみ食べで、側にいくと悪臭が伝わってきました。

両親があちらこちらの施設に入園を願ったのですが、みちよさんと面会するとその場で断られてしまい、両親は彼女の入園を諦めていました。「止揚学園を訪ねた時も、(入れる)とは思っていなかったので ″みちよさんと共に歩みましょう″といわれた時は半信半疑でした」と父親が言っていました。
私もみちよさんと初めて出会った時、(こんな身体の子を引き受けられるのかなあ) と一瞬ためらいを持ちました。しかし、訥々と語る両親の言葉を聞きながら、(みちよさんを引き受けられるのは止揚学園だけかもわからへんなあ。きっと神さまが託さはった女の子や。保母さんたちは苦労するかもわからへんけど、忍耐してみちよさんを優しく包み、笑顔を甦らせてくれる日が必ず来る)と確信して、(みちよさんを引き受けよう) と決断しました。

彼女が入園した時から、どんな知能に重い障がいをもった仲間たちに出会っても、あの時の燃えていた心を想い出して、止揚学園の仲間になることを断らなくなりました。みちよさんは私に止揚学園が歩む正しい途を教えてくれた女性なのです。

130816pkula《この記事は、冊子止揚の次号第119号に続きます。 写真はオクラの花です。》

 

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