心のこり

父母の介護や見送りを振り返ってみて、心残りに思うことは殆んどない。勿論、ああすれば良かった、こうもできたのではと思うことは限りない。でも旅立ちを送った当時も今思い返してみても、”あえて心のこりと思い悔やむこと”は殆んど無い。

それでも、自らが七十五の声を聞き脳梗塞で入院治療を経験してみると、これまでは見えなかったが今となれば見えてくるものがある。

七十のことは七十にならなければ、八十のことは八十にならねば本当のところは判らないものだと常々思っていた。病人のことは病気を経験しなければということでもある。今回の入院が死に直面したとまで切羽詰まったものではなかったが、重度の介護生活を否応無く意識させられた入院生活ではあった。

《何でもかんでも体験を経なければ、あるいは疑似体験がなければ理解できないなどと言うのではない。体験重視論が行き着くところは、殺人と小説書きの関係で答えが出ていることである。”解り得ない”というところを判っているか、分別しているか否かが、ことを左右すると言っているだけである。》

父の旅立ちはあっけないものだった。肺炎の診断を受け、病床への往診を受けたその日の夕刻に旅立っていった。車椅子での介護だって僅か二日か三日のことだった。だから病とか死について語り合うことは無かった。

母はガンの告知を受けてから亡くなるまで、ほぼ一年間を付き添って過ごした。だから死について(母はお迎えと言っていたのだが)、母が語るのを幾度となく聞かされた。此処でいう心残りとは、この母のお迎えについてである。

母は自らの死病について、怖れや不安を語るよりも、後に残すことになる夫(父)への心配を語ることが多かった。時には孫の行く末についても心配を語ることがあった。病が重くなり床を離れられなくなってからは、私の顔を見れば「お迎えがまだ来ない。」とか「もうお迎えが来て欲しい。」と言うようになった。

あきらかに自らの死を意識していた母の心に深く寄り添って介護出来なかったのが心残りである。母に付き添ってはいたけれど、「母のお迎えからは目を背けていたし、話題も避けていた。」そのことが今となればとても心残りである。

母と彼女のお迎えについて語り合っていれば、母の安らかな心に寄り添えたかもしれない。「幸せすぎて死ねないの。」と言ったと、介護士や看護師に聞かされたけれど、私自身が母から聞くことが出来ただろうし、手をとって二人で泣くことだってできたかもしれない。

《泣く私を、死出の旅支度を整えている老母が慰めてくれたかもしれない。そうでなくとも、私たち夫婦にはお前が居てくれたが、お前には(ともに暮らす)誰も居ない・・・などと言っていた。》

《2010/04/30 母の旅支度より引用。”母の旅支度”とは、母の病状と私の日々の心の揺れ様を余すところなく記していた介護日誌である。》

今日(2010.4.30)の午前中、買い物で留守にしているあいだに(連休を利用して夫婦で祖母の見舞いに来た孫に)、母は「今日は何日か?」と尋ねたそうである。四月三十日と答えると、なにやら意外そうに十八日は過ぎたのかと言ったそうである。そして壁に掛けてある暦をはずすように言ったという。 四月十八日は初孫亜希子の三十七回忌・祥月命日である。亜希子が祖母を迎えに来たのであろうかと思うと、目の前がぼやけた。

腰が屈んでしまった祖母の手を引く三歳の娘の姿が、思わずしらず目頭に浮かんだ。私を振り返り微笑みを見せる娘の笑顔が、なにやらとても懐かしい。 気づけば有り得ないこと、娘が生きていればもう四十なのに、浮かんできたのは三歳と九十歳が連れ添う姿である。 死者の来世は我が心のうちに在るのだと、つくづく思う。(引用終り)

孫娘の命日が過ぎてしまったと知り、暦を壁からはずすように言った頃に、母は明らかに死を意識していたと振り返る。確かに死を意識し素直に受け入れていた母と、真正面からではなくとも、それなりに死を語り合うことはできただろう。脳梗塞を患い、まじかに迫る死を意識し対面せざるを得なかった経験を経た今であれば、死を死として語ることができるような気がする。

《2010/05/01 母の旅支度より》
母にお茶を飲ませると喘いで、「飲まなければ良かった。」と言う。トイレ介護をする。ベッドに抱え上げると節々が痛むのか「イタイ」と言う。改めて眺めれば骨を抱き上げているように痩せている。痩せた手、足、胸を見れば、とても可哀相で「もう、頑張らなくてもいい。早く楽になりたいだろうな」と思う。

肺ガンの告知以来一年間、うろたえた様子を特に見せることもなく、淡々と日々を変わりなく過ごし、良く、とても良く頑張ったと思う。もう楽にさせてあげたいと思う。 携帯トイレの掃除の後で、しばらく、母の横に居ようと思うが、母に涙を見せそうで怖い。 部屋を覗くと親爺殿が母の寝ているベッドの横においてある椅子の上で居眠りをしている。邪魔しないように、トイレ掃除は後回しにする。(引用終り)

母は穏やかに死を受け入れていたと振り返るが、母が感じている死について、私が母と語り合うことはなかった。

《2010/05/02 母の旅支度より》
母を看にいったら、口を半開きにしてハースーと規則正しい寝息を立てて眠っている。 一昨日迄は眠っていても昼間は目を開けたものだが、今日は少し物音をたてても、ただただ眠っている。連休で廻りも静かな自宅にいて安心しているせいかと、それもこれも自宅介護のおかげと思っている。

誰かが、生きづらい世の中だが、死にづらい世の中でもあると云っていたが、示し合わせたように連休に重篤になり、夫、息子、孫、孫の妻に囲まれて穏やかな数日を過ごしている。 当然のことだが、私と父だけではこうはゆかないが、長男夫婦、次男、親戚そして主治医、看護師、介護ヘルパー等々多くの皆さんの助けがあってこそのことである。(引用終り)

連休の旅行をキャンセルして祖母を見舞い看取ってくれた長男夫婦、イチゴ栽培の忙しさを縫って島と鄙里を往復してくれた次男、旅発つ母を真ん中にして一家が過ごした五月の連休は、何ものにも代え難い時間だった。

《2010/05/04 母の旅支度より》
朝食を済ませて部屋を覗くとお茶が欲しいという、お茶を一口飲ませてしばらくするとトイレと言うから、立たせてというよりほぼ抱えてトイレに向かう。支えバーに掴まらせても自力で立っていられないから、私が立たせ長男が下着を下ろして用を済ませる。

用を済ませた後、「こんな身体になっても、なんでお迎えが来ないのだろうね。」と言うから、「亜希子がまだ迎えに来たくないのだろうよ。もう少し孫たちに面倒見させてやりなさい。」と答えると、かすかに泣いていた。「もう死にたい、死なせて欲しい。」とも言うから、「勝手に死なせるわけにもゆかない。」と答える。(引用終り)

《2010/05/07 母の旅支度より》
今朝の母は奇妙に安定し、「あついお茶がほしい。」とか「何か甘いものが欲しい。」と要求も具体的である。ただ要求する声はか細くかすれている。  時折痛みが襲ってくるようで、顔をゆがめ、何かをさぐるように手足を動かしている。

動作はとても緩慢で、虚空を探った手を痛む腹部の前で組み、また両脇のベッドサイド柵を探るように移動し胸の前で組む。時に太ももに添えて足を曲げる。そんな緩慢だが周期的な、そう太極拳みたいな動作を無言で繰り返している。痛いのかと聞けば無言で首を横にする。(引用終り)

《2010/05/08 母の旅支度より》
10:00頃 訪問看護師来訪、体温が異常に低いので三回検診するが、いずれも34度前後。13:00頃 代診の医師に往診いただく。体温はやや回復して36.1度である。一安心する。 医師は、容態は安定しており、数日は大丈夫でしょうといわれる。

15:00頃に相当量の胆汁を嘔吐する。一度に嘔吐出来ず二度三度と嘔吐を繰り返す。嘔吐ののちは、溜まった胆汁を排出したせいか、眠ることが多く、うつらうつらしている。 時々、ガーゼに浸した水や、薄い蕎麦茶を少量含む。目を見開いても焦点が定まらず、私を確認出来ているかどうか判らない。

17:00頃より息がやや荒くなるが、ファッ-ファッ-という感じである。鼓動は特に異常なし。 18:00 息が穏やかになる。スースーという感じである。水を求めることも少なくなる。 19:00 息の間隔が空くようになる。 スゥ― ・・・スゥ―という感じで、静かに聞いていないと呼吸音が判らない時もあり、時折息が止まっているようにも見える。

長男と長男の嫁、私がベッドの両側から手を握り、静かに語りかけるが何の反応もない。 20:20 胸に耳を当てても、心臓の鼓動を確認出来なくなる。多分、この時刻に心肺停止。枕元を離れて、一時、島に帰っていた次男がとんぼ帰りで帰郷したのは翌09日10:00だった。(引用終り)

今の私が介護を受ける身となった時に周りにいる家族などの人たちは、延命治療を避けることからも、自らの葬儀のあり方からも、何より「死」そのものを話題とすることから、避けないでいて欲しいと願う。「そんなこと言わないで、頑張って下さい。」とか「きっと良くなりますよ。明るく前を見て下さい。」などと言わないで欲しい。お為ごかしや慰めなどでなく、素直に我が心に寄り添って欲しいと願うのである。

この記事、2995号、カウントダウンも残りわずかとなったものの、3000号まで記事数を消化しているだけに思えてならない。3000号に辿り着いた後に何かが見えてくるだろうか、それとも何も見えないだろうか。《何はともあれ、No.2995》

《2018.06.22 追記》
死に逝く者、旅立つ者とどう向き合えば良いのだろうか、今や己自身はどう向き合って欲しいのかなどと、今朝がた起き抜けに寝床で考えていたら、中村のことを思い出した。東福寺の日赤病院に彼を見舞い、次いで北白川のホスピスに転院した彼を見舞うようになった時、彼にかける言葉や尋ねることが他にもあったのではと思ったのである。

「心残りなことは?」、「会いたい人は?」、「別れを告げたい人は?」などと、五十年を付き合った者として、奥様より長く奥様とは違う世界を共にした者だからこそ聞くことや話すことがあったのではと、今更ながら思うのである。

バスにて京都駅からホスピスまで    投稿日: 

この記事を書く一つの端緒となったのが、この文庫本である。書棚の隅からふと目に留まり再び読んで見たのだが、今も読み返している。

文春文庫『多生の縁』玄侑宗久 | 文庫 – 文藝春秋BOOKS
現役の僧侶にして芥川賞作家の著者が、さまざまな分野の第一人者と対談。京極夏彦とは「おがみやさん」と供養について共感し、山折哲雄と現代人の死後ビジョンを模索し、梅原猛と仏教の多神論的立場を再評価するほか「人は死ぬ時何を見るか」「ガン告知について」「親の愛とエゴ」などのテーマで現代人の生と死を見つめる。

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