母の日・親爺の日記

しばらく前からコンビニやスーパーの店先には、母の日関連商品の陳列が並んでいる。 四年前の五月から、母の日は私にとって特別な意味を持つようになった。 その時から母の日の前後に、母の命日が巡り来るようになったからである。 母の日を特別に意識することなどついぞなく、この年に至った茫猿であるが、この時からは否応なく母の日を意識せざるを得なくなった。

近頃は、とくに母との会話が乏しかったことを少し悔やみながら思い出している。 母との対話が無かったわけではない。 元気な頃は帰宅して食事をしながら、母が話すあれやこれやの四方山話を聞いていたと思うし、病床の枕元でも母の断片的な話を聞いてはいたと記憶する。それでも、それらは対話とは云えず、ただ黙って時に相づちを打ちながら聞いていたに過ぎなくて、会話にはなっていなかったと思い出す。

病床についたある日のこと、見舞いに来た孫に向かって母は「今日は何日だ?」と尋ねたそうである。長男が「・・日だよ。おばあちゃん。」と答えると、母は「そうか、もう過ぎてしまったか。」と言ったそうである。 後ほど「父さん、一体何のことだろう?」と長男に尋ねられた私が、ふと思い当たったことがある。 それは母の初孫であり、私の長女の命日のことである。 三十数年前に亡くなった初孫の命日が近いことを思い、何か供養をしたいと考えていたのであろう。 それが病に伏せっていたから、うかと過ぎてしまったことを秘かに嘆いたのであろうかと思われる。

聞いた私は「孫が迎えに来たのかも。」と語りかけるわけにもゆかず聞き流してしまったのであるが、今にして思えば孫・亜希子のことを母と語り合ってもよかったのだろうと思えるのである。「何かお供えをしようか」とか、「お経をあげておくよ。」とでも話してみてもよかったのだろうと思えるのである。

今年も母が亡くなってから四回目の母の日がやってくる。 年毎に話しておけばよかった、会話をしておけばよかったと、思いが深くなる。 亡き娘のこともそうだが、病床にいて野良仕事から離れているから、日焼けもせず爪先もきれいになった手を見つつ「こんなに手がきれいなのは何年ぶりだろう。」と言った時にも、「早くよくなって、また畑に出ようよ。」とか「美しくなるのだから、病気も悪くないね。」とか、亜希子を話題にして会話しておけばよかったと振り返るのである。

話し好きな母、寡黙な父、寡黙と云うほどではないが暮らし向きが違うから話がかみ合わずもっぱら聞き役に徹する私、加えて晩年は両親共に耳が遠かったから会話が成り立たない日常のまま、母をみおくってしまった。 父とは「食事ですよ」とか「風呂の仕度ができたよ」などと短い伝言みたいな会話だけで終わった。 思えば、状況が変わったからといって、急に父母との会話スタイルを変えることなどできなかったのである。 それでも何かできたのではと思い返すし、こちらが話せば、父も母も、もっと多くを語ってくれたのであろうと思い出す。 何よりも父母からもらった様々について、一言の礼も言わずに逝かせてしまったことを悔やむのである。

先の記事「山法師開花」では親爺が遺した日記について書いた。 父が遺した日記は1954年から無くなる年までの60年間に及ぶのであるが、全ての日々が記されているわけではない。 何も残されていない年もあるし、記述されている日も飛んでいるし書かれている日々も多くは一行記述である。 先に引用した日付の記述などは例外的に長いのである。

「8.31 時々雨 草刈」 とか 「義母来たる」、「義母帰る」などという素っ気ない書込みが多いと云うよりは大半である。 そんななかに、一般よりは十年も遅れて職に就いたために、人より給料の安い貧乏教師の日常がうかがえる記述もある。 たぶん妻に頼まれて今尾の鶏屋へ出向いた時のことだろう、「1954.6.18 卵33《個》売り 310円也」と記されている。 他には、こと志と違ってしまった己の人生に内心鬱々とするものがあったのだろうか、頭痛、胃痛、不眠という記述も多いのである。 四十を過ぎ、もう変えようのない自分の人生を、その頃の親爺はどのように受けとめていたのだろうかと推し量ってみたりする。

《小学生から中学生になる頃には、卵や鶏を売りに行くのは、多く私の役目だった。 「買ってくれませんか」と声をかけながら店にはいるのも、店の主が卵を数えたり鶏を調べたりするあいだ気恥ずかしくて、俯き加減に待っているのが厭だった。 高校に入る頃には、母の養鶏は飼育数が格段に増えて、販売は業者扱いになっていた。 「お父さんが給料をもらってきても、二つに分けてお前と弟に仕送りすれば、何も残らなかったから、我が家の生計は養鶏で賄っていた。あの頃は養鶏様々だった。」と後年、私に母が述懐したことである。》

こうして断続的に書きつづられた父の日記は、晩年は日々の読書記録以外は何も記されないものとなり、つれ合いが先に逝った4年前のその日も「5.8 往生」とのみ記されている。余白にどんな思いが綴られているのか、もう知るよしもない。 その半年後、亡くなる五日前の日記は、判読不能なほどに崩れた文字の羅列と化して終わっている。

今日は野菜の花である。 先ずはエンドウの花。140507endou

そして、胡瓜の花。140507kyuuri

勢いが強くて困りものではあるけれど、柿の木の下で一斉に咲けばそれなりのヒメジオン。140507himejion

ところで、今日の茫猿の昼餉であるが、朝採りのサヤエンドウ、アスパラ、カリフラワーをさっと湯通しして山椒味噌であえた一皿のみである。 他に常備菜のチリメン山椒、梅干しなどがあるものの、一見すればキリギリスのような貧しい食卓である。 でも茫猿は侘びしくも寂しくもない。 自らが育てた摘みたての野菜を、自分の好みの味に仕立てた山椒味噌でいただくなど、とても心豊かに思っている。 さっと湯がいた野菜はどれもほのかに甘く、舌にのせればサンショの香りが口中に広がる。

キリギリスといえば、冷蔵庫の野菜室にはホウレン草、摘み菜のニンジン、ダイコン、新タマネギなどが溢れているから、野菜中心のキリギリス的食卓はとうぶん続くのであろう。 それに春野菜が終われば夏野菜が収穫できるようになるだろうから、草深包丁はベジタリアン包丁なのである。

五周忌を機会に、仏壇の法名軸(過去帳)に弟、母、父の法名を書き加えた。 また一つ、区切りのときである。

 

 

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