秋霖前線

朝から小雨空と曇り空が交互に続く空模様である。午後から家人を乗せて買い物などに出かける予定だから、雨間をぬってナバ菜とサヤエンドウの種を蒔いた。畑仕事を終えて鄙里を巡りながら、この頃は母や父のことを思い出すことが少なくなったと考えた。忘れたわけではない、折々に思い出すけれど、亡くなってから二、三年の頃とは違ってきた、その訳を考えた。

振り返ってみれば、2006/08に母の末妹尚子叔母が若くして亡くなったのが、総ての始まりだった。翌2007/08に我が弟がこれまた若くして亡くなり、2008年には母の次弟・福司叔父が亡くなった。2009/05に母が末期がんの告知を受け翌年2010/05に逝った。後を追うように12月には父が永眠した。

それからも、母の弟たち、義之叔父、秀夫叔父、益雄叔父が相次いで亡くなり、かけがえのない友人である村北が亡くなったのは2013/10、同じく博一が亡くなったのは2015/06である。それから今日まで身近な人を見送ることはなかった。というよりも茫猿の身の回りに大切な年長者や同年代者がほとんど居なくなってしまったという方が早い。見方を変えれば送る人がいなくなり、次は我が身の順番になってきたとも云えよう。

父母の見送りのあと数年ほどのあいだは、毎年のように誰かを送ることが続いた。その度に父母の喪失感が増幅して思い出されていたのであろうと考える。父母の死の記憶の上に、叔父や友たちの喪失感が次々と積み重なり、父母の喪失感は記憶のオリの底へと沈められていったのであろう。それが、父母の喪失感を穏やかなものにしていったのであろう。

今の茫猿老夫婦のことを考えてみれば、鄙里の二人暮らしは日々何ということもなく静かに過ぎてゆくのである。大きな病や抱えきれない出費に苦しむこともない。それなりの出来事は起きているけれど、老夫婦に抱えきれないほどの出来事は生じていない。格別に豊かではないけれど、マアマアの日々が過ぎているのである。

朝起きて畑に出て、春野菜の種をまき、秋野菜を採り入れる。雑木林は茫猿好みに整えられ畑の一角では柿が色づいている。佳き哉善き哉と言わずしてなるまいと思わされる秋雨の昼過ぎなのである。写真は秋茄子と満願寺、それにハゼたら取ろうと考えていたザクロに触れたら、手の中に落ちてきた。このザクロ、飾り物にはなるけれど食べることができるのかどうかは判らない。

 

 

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