蹴鞠おじさん?

「蹴鞠おじさん」という用語がネット・アドで話題になっている。蹴鞠とは平安貴族の遊戯であり、京都の下鴨神社あたりで蹴鞠保存会が公開演技を行いテレビで報道されることも多い古式遊戯《貴族のスポーツ》である。この蹴鞠に耽る”おじさんたち”と揶揄する意味で「蹴鞠おじさん」という《とても秀逸な》言葉が用いられている。

ことの発端はネイティブ広告ハンドブックが判り難いというネット書込みから始まって、ある程度の業界素養がなければ理解し難いハンドブックであることの是非に及び、挙げ句は「ネット広告を語るのであれば、マクルーハンを読んでから」などというマウンティングとも受け取れる応酬があり、これらの一連の応酬がいわゆる「炎上:祭り」状態になっているのである。


「鄙からの発信」が「蹴鞠おじさん」に興味をもったわけを語る前に、ネイティブ広告ハンドブックなるものは何かと云えば、一般社団法人 日本インタラクティブ広告協会《JIAA》が2016/11/4に公開したネイティブ広告手引書である。《直接的には、業界人以外は読む必要もないけれど、ネットに溢れている広告と云うもの特に”ステマ”に注意すると云う意味からは、一度目を通しておくのも悪くない。JIAAの役員を見てみれば、一般消費者にとっても縁の深い企業がズラッと並んでいるのである。》

ネイティブ広告ハンドブックが示しているネイティブ広告の定義は以下のとおりであるが、門外漢には一読しただけでは何のことやら判らない。「ネイティブ広告は「概念」であり、「デザイン、内容、フォーマットが、媒体社が編集する記事・コンテンツの形式や提供するサービスの機能と同様でそれらと一体化しており、ユーザーの情報利用体験を妨げない広告を指す」(2015 年 3 月 18日に JIAA が発表した定義)。

さて、蹴鞠おじさんが登場する、ネイティブ広告ハンドブックをめぐる応酬の経緯は下記の記事に端を発する。「蹴鞠おじさん」で検索をかければ、”炎上・祭り”の様子を覗くことができるのである。
ネイティブ広告ハンドブックと広告業界の「蹴鞠おじさん」について  《2016-11-10》

詳しくは前掲の記事をお読み頂きたいが、業界人であるか否かに関わらず、関心を持っていたい事柄について、前掲記事より部分引用してみる。
【A】ネイティブ広告に触れるのは読者であり消費者であって、それが適切に展開されているのかどうかの判断基準はその消費者達も持っていた方が良いに決まっている。
大多数の消費者がこのガイドブックの内容を理解していた方が、業界の適正化に寄与するのは明らかでしょう。飲料にくっついている成分表が難解で「業界の関係者なら読めるように」なっていたら困るのである。

(注)ステルスマーケティングに惑わされないためにも、ネイティブ広告について承知しておいた方が良いであろう。デジタル・メデイアに限らずアナログ・メデイアの世界でも、《意味が多少違うけれど》明らかな広告とは見えない提灯記事紛いが溢れているのである。

【B】そもそも、WEBメディア界隈は言ってしまえば素人がばんばん参入してくる業界でもある。大学出たての新卒がメディアの編集長をやってる事なんてザラにあるわけで、
そういう実情を知らないわけがないくせに、そういう人達でもスッと読めるような努力を放棄して「これだから素人は」みたいな目線で語るのは傲慢だし、最初から「業界関係者なら読めるでしょ?」「読んで当然でしょ?」という姿勢で来るのは発信者側のエゴでしかない。

【C】《蹴鞠おじさんの由来》
「貴方達がこれまでにやってきたのは蹴鞠だ。選ばれた貴族が良くわからない言葉と良くわからないルールで良くわからない試合をしてきた。今まではそれでよかったのかもしれないけど、デジタルはそうはいかない」《以上、引用終了》

「蹴鞠おじさん」という用語は、前掲【C】の蹴鞠を受けて、「業界の先達や中枢に位置を占める人たち」が、「良くわからない言葉と良くわからないルールで良くわからない仕組み」を訳知り顔で、時にマウンティング姿勢で論じることを指している。俗に言えば上から目線で煙に巻く姿勢と云えるのであろう。

さて、これからが本題である。この話はネット広告業界に限ったことではなかろうと思うのである。様々な業界で「蹴鞠おじさん」は存在しているのであろう。不動産鑑定評価 の世界でも「蹴鞠おじさん」が、幅を利かしてはいないかと思うのである。kemari12

鑑定評価が公的評価すなわち官公庁を依頼者とする業務から脱却し、一般市民を依頼者とする業務を拡充し業容を改めてゆかなければならないと云われて久しいのである。そのときに、不動産鑑定士は専門職業家として内向き論理に傾き過ぎてはいないかと思うのである。

鑑定評価に関わるのであれば、デジタルマッピング、ビッグデータ、ヘドニックアプローチくらいは理解してからなどと云うのも「蹴鞠おじさん」化なのであろう。

ネットではAI(?)評価が席巻し、宅建士による中古住宅価額査定(?)がリアル市場では幅を利かしているという状況のなかで、鑑定士は何処へ向かうのか。半世紀前の不動産鑑定評価基準制定当時の鑑定評価にいつまでも拘っていてよいのか。

鑑定評価基準を判り易く書き直そうと云うのではない。ある部分においては、その種の努力も必要なのであろうが、最も大事なことは一般市民である依頼者に判り易く丁寧に「鑑定評価額に至った経緯」を説明する努力を重ねてきたのであろうかと云うことである。別の表現をすれば、読むに値する鑑定評価書を依頼者に提示してきたのであろうかと云うことでもある。

術語やカタカナ語や数式を羅列するだけでなく、数表やグラフや地図を多用してビジュアルに判り易く説明する努力を重ねてきたのであろうか。あるいはその為のノウハウやスキルを磨いてきたであろうかと考えるのである。不動産鑑定士はいつのまにやら「蹴鞠おじさん」となっていたのではないかと問うのである。

《いつもの蛇足というかある種本音部分》
”蹴鞠おじさん”感が溢れてくるのは、取引事例に関わる部分である。四半世紀も前の事例収集の苦労話を長々と語り、事例が生命線であるというのは良しとしても守秘にこだわりあまりにも閉鎖的、半年も前の鮮度の落ちた地価公示事例へのこだわり、一部に限られる取引価格情報に傾き過ぎて取引情報を蔑ろにする不思議さ、AI評価やビッグデータには関心を示すものの身近な公表多量データには無関心なこと、 etc   etc  etc  。

 

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