離れることの大切さ

この記事については、幾つかの原稿メモを眺めながら、何をテーマに記すか迷っている。迷うには理由がある。実はこの投稿は2,799号目の記事なのである。2,800号記事については既に原稿がほぼ出来上がっており、後は若干の推敲を残すだけである。であれば、「鄙からの発信」が駄文の羅列であるとしても、2,799号記事を埋め草記事にしたくはない。急いで2,800号に到達するためだけの記事にはしたくないという”僅かなプライド”が、埋め草記事を掲載することを躊躇させるのである。

そこで、幾つかの原稿メモから、掲載をためらっていた記事をまとめて記事にする。なにやかやと考えていたことを、それぞれ短く取り上げてみる。

《離れることの大切さ》
現役の頃に、書き上げた《タイピング入力を終わった》原稿をそのまま書類《不動産鑑定評価 書》にすることは無かった。少なくとも一夜、可能であれば数日は寝かせたものである。寝かせているあいだに考えを熟成させたのである。一旦は当該事案から離れることを常としていたのである。

別の事案を挟むことにより、数日間は全く前の事案のことは考えないのである。数日後に前の事案に向かい合うときには、新しい視点・視座から事案を考えることができるから、考え及ばなかったことや、思い込み違いなどに気付くのである。誤字脱字なども気付き易いのである。

「鄙からの発信」の記事だって書き上げて直ぐにアップはしない、数時間後に読み直してから投函する。記事によっては半月も寝かすことだってある。寝かせることで熟成すると考えている、時には熟成に至らず酸っぱくなったり時を失することもあるが、それだって掲載するほどの事案では無かったと云うだけのことなのであろうと考えている。

スマホ中毒とか、LINE中毒、iNet中毒などと云われる。四六時中ネットにつながっていないと不安だと云うネット依存症候群のことである。ネット全盛の時代であればこそネットから離れる日があってよいのである。仕事のことを忘れる日が必要なように、ネットのことを忘れる日が大切なのである。

離れていればこそ判ることも、見えて来ることもあるのである。緊急メールがあったとしても、それはそれで対応すれば佳いのであるし、緊急であれば音声電話が届くこともあるだろう。ネットから一日離れたとしても生死に関わることなど無いのである。

《Facebookの限界》
Facebookの限界というほど大袈裟なことではなく、Facebookの傾向というくらいのことである。それに、FBの新規投稿欄の問いかけは”今なにしてる?”だから、こんな風に深読みすべきものではないのかもしれない。

それに、FBは”リア充”誇示の場と化していると云う説も多数派になってきている。特にFBが蔓延し年齢層が高くなってきていると、その傾向すなわち、「リア充:日々の生活の充実」を誇示する場になってきていると云うのである。

海外旅行、国内旅行の報告、話題のレストランでの食事、話題の観劇等々を写真付きで見せびらかす場となってしまっているという指摘である。茫猿はそこまでひがみっぽく考えなくとも「楽しんでいますね」と、素直に”いいね”を打てば良かろうと思っている。茫猿にだって、そのような傾向が無かった訳ではないのでる。

ただ、日本人の傾向なのであろうか、FBもROMメンバーやアカウントを開いただけのスリーピングメンバーが多い様である。FBのなかで茫猿は幾つかのグループに属しているが、グループの投稿記事には既読者数が表示される。この既読者数を見ていると概ね三分の二程度以上には達しない。三分の一はFBを開いてもいないスリーピングメンバーということである。

残りの三分の二だって、多くはROM《Read Only Member》である。何故かと云えば、投稿することも、”いいね”を打つことも無いメンバーだからである。

茫猿の友だち数は少ない。顔と名前の一致しない方の友だちリクエストは無視しているからであるし、茫猿から友だちリクエストを発信することは基本的にしないからである。それでも三年も経つうちにいつしか”友だち”数は百近くになってきている。そして、その友だちから返されてくる”いいね”にもある種の傾向というよりも大きな傾向が読み取れるのである。

六月の投函を振り返ってみると、間違いなく管見ではあるが、明らかな傾向が読み取れる。
「笑顔の裏に病自慢、孫自慢、妻女への愚痴を垣間見せる老朋友たちと、亡き友の墓前に集いました。」(06/21) この投稿に返された”いいね”は20件に達している。
「アベノミクスを支持する人たちは、自民党の憲法改正案に目を通してから投票に行くべきだと思う。」(07/01) この投稿には未だに一つの”いいね”も返ってきてはいない。

毒にも薬にもならないけれど、少しはほのぼのとする投函には”いいね”が多く、辛口世評投稿はスルーされるのである。日々消費され、日々埋もれてゆく断片情報が辿る宿命なのであろうが、Facebookという手軽さ故に薄い情報伝達手段の限界なのであろうと思われる。この情報消費傾向に、さらに輪をかけているのが、FB利用者の大半がスマホ経由と云うことである。画面が小さく、慣れないと入力も面倒なスマホ利用の限界も表わしていると思えるのである。《あくまでも狭い見聞による管見ですが。》

《昨夜のNHKスペシャル》
昨夜のNHKスペシャルは「私は家族を殺した  “介護殺人”当事者たちの告白」を放送していた。見ていて、両親を介護していた七年前を思い出して胸が詰まった。当時の私の心のなかに「殺意」が芽生えたわけではない。殺意など微塵も抱えることは無かった。

それでも、母から「もう死にたい」とか「死なせてくれ」というつぶやきを一、二度聞かされた。母の闘病・介護方針について父や息子たちから難詰されたこともあった。幸いにして大事に至ること無く、両親を我が家から旅立たせることができたが、真昼にめまいで立ち眩んだこともあったし、病む母と衰えを隠せない父のふたりを見ていて不安に駆られたこともあった。幸いなことにとても幸せなことに、介護ヘルパーや主治医、家族縁者など多くの人たちに支えられて両親を送り出せたが、テレビ放映を他人事のようには見れなかった。高齢者人口が25%を超えた日本が向き合わなければならない問題なのである。

《以上、2799号記事である。やはり埋め草記事であろうか》

《バングラディシュにおけるテロ事件》
バングラディシュにて、外国人を対象とする無差別自爆テロ事件が起きた。ニュース報道はコーランを暗唱できなければ殺害されたとも伝えている。JICAなどの海外支援事業に携わる日本人が、理不尽に殺害された。とても痛ましく哀しいことである。

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