AIJ事件に見る総無責任体質

報道で知る限り、AIJは投資顧問会社であり、投資先の指示はするが実際の資金管理を行っていた訳ではない。 資金管理は委託を受けた信託銀行が行っていたものと思われる。 そこで疑問が浮かぶのである。委託を受けた信託銀行では現在の運用残高を把握できていたはずであり、事務管理のみとはいってもその残高推移に疑問を持たなかったのだろうか。

年金基金には旧社会保険庁や厚生労働省から多くのOBが再就職していたという、再就職の経緯はさておくとして、彼等のあいだに情報共有はなかったのだろうか、彼等の情報共有はAIJの運用実績は素晴らしいという、今となればガセネタばかりだったとすれば、何の為の天下りだったのかと問わざるを得ない。

世間一般より遥かに高い運用実績などというものが簡単に存在できるはずもないというのは歴史が伝えることである。甘い話には裏があるというのは誰でも知っている格言である。 AIJのみが群を抜く優秀な運用実績を上げることなど短期間ならいざしらず、長期にわたっては有り得ないことであるし、一度としてエラーのない運用実績も疑って然るべきであろう。

中小企業対象の総合型企業年金制度というモノを少しばかり知ると、そこには寄せ集めもたれ合い、誰かが見ていてくれるだろうという構図が浮かび上がってくる。 美味しいことばかりが表面にあって背後に潜む連帯保証・連鎖倒産などのリスクが理解されていなかったという構図も見えてくる。自己責任貫徹という当然すぎること当然なことが意識されてこなかったと言える。

右肩上がりの経済情勢が永遠に続くという前提であれば、破綻は想定外事項でよかったろうが、右肩下がりの経済情勢を前提にすれば、企業年金破綻の危険性や、破綻を回避するための予定利率の引き下げなどとても困難な状況も見えてくるのである。

後講釈と云われるのを承知でいえば、「旨い話は怪しい話」と一度でも眉に唾を付けていれば、こんな深みに嵌るはずもなかろうと思えるのだが、詐欺話の結末はいつもこんなものであろうと思える。年金基金のおかれた厳しい運用状況が背景にあったとはいえ、欲に絡めとられたお粗末極まりない話と云えば酷な言い方だろうか。

我が鑑定業界にAIJ問題を持ち込むのは、いささか牽強付会かもしれない。でも間違いなく申せることは、情報の共有が大切であり、現状が永続すると信じることでなく、今日に続く明日は無いかもしれないと疑うというか疑問符をいつも何処かに持っていることは大切だと思うのである。 得意淡然失意泰然とは少し違うとしても、常に違った切り口を持っていることは鑑定士という専門職業家としては必須事項だと思うのだが。

日本弁護士会で次期会長選挙が決戦再投票でも決まらず、候補者公募から仕切り直す再選挙が行われることになったという。 選挙の仕組み方法、再選挙の背景などはさておいて、興味深いのは再投票の投票率が50%強に止まったということである。 専門職業家団体の代表者を決める選挙でしかも組織の行く末に大きな影響を与えるであろうとマスコミでも話題になっている再投票の投票率が1/2に終わったと云うことが、他組織のことながら半分近くの会員の無関心さを思うのである。

鑑定協会の選挙も似たような状況にある。 協会のあり方や執行部の協会運営に多くの不満や疑問を持ちながらも、選挙には無関心という実態がある。 民主主義のイロハのイである候補者公募や投票行為に無関心であれば、その後の推移に異議を申し立てる資格は無いのだということすら理解されていないことを嘆きたくなるのである。 新スキーム問題にしてもいまさらに、「知らなかった」とか「問題点の存在が判らない」という意見が聞かれるが、問題が浮上した昨年六月以来、今日まで何をしていたのだと云わざるを得ないのである。

膨らみがめだつようになった鄙の里桜

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