視点を転じると云うこと

上京の折に立ち寄った書店の、棚のなかから目に留まった文庫本がある。
幕末史:半藤一利著・新潮文庫」である。 目に留まったというのは、帯に記してあった「反薩長史観」という言葉に惹かれたのである。 帯はこう記している、「これから私が延々と皆さんに語ることになります幕末から明治十一年までの歴史は、「反薩長史観」となることは請け合いであります。あらかじめ申し上げておきます。そう、「幕末ぎりぎりの段階で薩長というのはほとんど暴力であった」と司馬遼太郎さんはいいます。私もまったく同感なんです。」

反薩長史観といえば驚く方も多いのかもしれない。だけどよくよく考えてみれば、古今を問わず洋の東西を問わず、一般に後世の人が目にする正史というものは、全て勝者(覇者)の歴史なのである。敗者や被征服者の視点で(側から)書かれたものなどは残されていない。多少は残ったとしても、勝者にとって都合の悪いことが語りつなぐことも記録に残されることもないのである。

半藤氏の幕末史を読んで一番驚いたというか、改めて感慨を覚えたのは、氏が語る幕末史は嘉永六年の「ペリー艦隊、浦賀来航」から明治十年の「西南戦争、西郷隆盛自刃」そして明治十一年の大久保利通暗殺までの歴史なのである。 嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治と続くから長い時間のように思えていたが、西暦で云えば1853年から1878年までの25年間の出来事である。 今年は平成25年であるから、平成年間中に等しい時間中の出来事なのである。

平成元年にペリーの黒船艦隊が来航し、安政の大獄、桜田門の変、池田屋事件、蛤御門の変、長州征伐、大政奉還、戊辰戦争、会津落城、五稜郭の戦い、廃藩置県、征韓論、西南戦争と続く激動の歴史は、たかだか平成年間中に等しい時間に起きたことなのである。 平成のはじめ、丁髷を結い刀を二本差していた者が、平成25年にはザンギリ頭で慣れぬ商売をしているか、移り住んだ土地で慣れぬ鍬を手に荒れ地を開墾しているのである。 現代は変化極まりない時代であるとよく云われるが、それはただただ物質的文明の有為転変なのであり、このような文化の転移変転を想像できようかと思わされるのである。

歴史というものを、今生きる者の目線で見ることの愚かさを思い知らされるのである。 同時に歴史は常に勝者の視点で記され残されるものであり、いかに正当であろうとも(敗者側にも敗者の正義が存在していようとも)後世に残されることはないということ、少なくとも後世に語り伝えようとはされないことを知らされるのである。 だからこそ、歴史に向き合う時は敗者(被征服者)側からの視点がとても重要なのである。

茫猿はいつの頃からか、敗者・被征服者の歴史に興味を抱くようになっている。
最初は会津藩士・秋月悌次郎の一生を描いた「落花は枝に還らずとも:中村彰彦著・中公文庫」だったろうか、次は前九年後三年の役を戦った安部貞任を描いた「炎立つ:高梁克彦著・講談社文庫」、そして安部貞任に先立つこと約300年前に坂上田村麻呂と戦ったアテルイを描いた「火怨:高橋克彦著・講談社文庫」である。

それら蝦夷・熊襲と蔑称された人々の歴史、すなわち渡来系・弥生文化に先立つ一万年の歴史をもつ先住民・縄文文化の存在に目を向けられたのも、明治維新が維新と称えられたのも後世のことであり当初は「ご一新」であったこと、などなどに目を開かされてゆく発端は、網野善彦氏と網野史観に出会ったことだった。

網野史観を総覧する「日本の歴史をよみなおす:網野善彦著・筑摩書房」は日本中世史をこのように云うのである。 日本が農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者や芸能民はどうして賤視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形づくった、文明史的大転換期・中世。そこに新しい光をあて農村を中心とした均質な日本社会像に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済、階級と差別、権力と信仰、女性の地位、多様な民族社会にたいする文字・資料の有りようなど、日本中世の真実とその多彩な横顔をいきいきと平明に語る。

茫猿は、止揚学園の創設者・福井達雨先生からいただいた「見えないものを大切に」という言葉を大事にしている。 福井先生の揮毫を学園のバザーでもとめて、かつては事務所に今は自宅に掲げている。この言葉の本来の意味は聖書に由来するものであり、「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」よりの引用です。 同じようなことをサン・テグジュペリの「星の王子様」はこう表現しているのである。 「心でしか見えないものがある。本質は目に見えない。」

歴史を読むうえで、「見えないものを見よう」と云うのとは少し意味が違いますが、でも本質は似ていると思います。 今見えているもの、正しいとされているものの、裏に隠されたものや抹消されたもののなかに、実は真実が隠されているのではなかろうかと考えるのです。 少なくとも、声高に語られる正論とか正義とか多数派というものに、たやすく誘導されたり惑わされてはならないと考えます。

 

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