晩秋景色

父母がいなくなって早や四年近くが過ぎた。 今年も身近な人の死に幾つか巡り合った。
年若の知人二人、一歳年下の従弟、高校の同級生等である。 命には限りがあり、いつかは別れが避けられないものと承知しているし、死というものは無に帰することであり、それらの人々はもはや私の思い出のなかにしか存在しないものであると云うことも判っている。 永遠の命というものなど、どこにも存在しないが、そのひとの生きたあかしは私の記憶のなかにあきらかに残っているものだとも承知している。 落ち葉を踏み、そんな思いを抱えながら歩いていると、彼らは死をどのように受けとめて旅立っていたのだろうかと考えるのである。

「もう残された時間は少ない。」と達観したように話していた従弟Tがいた。 彼は二十歳前のときに肺浸潤を患い長期の療養生活を余儀なくされるのである。 その後快復し学業を終えてから教員生活を全うしたのであるが、体力不足のせいなのか、何か考えるところがあったのだろうか、定時制の教師を自ら望みおのれの趣味人的人生を優先して生きたように思える。結婚はしたものの子を得ることはなかったことも、彼の生き方に大きく影響したように思えるし、思い残すことも少なかったように思えるのである。

同級生Mは、高校受験に失敗したあと一年遅れで進学し、卒業後は家庭の事情からか次男でありながら親の事業を助け、事業を拡大したものの亡くなる数年前にその事業を手仕舞いした。 彼の事業手仕舞いには私も少なからず関わったのである。 その後の第二の人生に夢や希望を語っていたものである。 初めて自らの意志と希望で生きてみたいと思っていたのであろう。 だけど願い叶わず難病にとりつかれてこの秋に旅だっていった。 彼を見舞うと「病にとりつかれたのも、発見治療が遅れたことも、とてもくやしい。」と繰り返していたのである。131214bansyu-asa

父とは生き死にだけでなく、何かを語り合うということは殆ど無かったが、母が寝付くようになってからいつだったか父と二人で食事を摂っていた時に、ふと呟くように「死ぬのは怖い」ともらしたことがある。 九十五歳を越えていたし、日ごろ親鸞や西行などの書物に親しんでいた父だから、既に生死を超えているのではと思っていた父の呟きだからとても印象に残っている。 その父も母が旅だって半年も過ぎるころには「もう死にたい」とつぶやいたのである。 母のいない日々に疲れたのか寂しさがつのったのか、それともなが年連れ添った妻を亡くして自らの命に執着が無くなったのか、今となってはもう判らない。

父とちがって母は八十を越えたあたりから「死ぬのは怖くない、怖いのは呆けることだ。」とか「私らはもういい加減に死なないと息子が迷惑する。 おとうさんもいい加減にしないと」などと口癖のようにいっていた。 死期が迫ってからも「私が死ぬのはいいけれど、残されるおとうさんが気懸かりだ」などと何度も私に話したものである。131214sazanka

こんな母の死生観はどこからきたものだろうかと考えるのである。 風邪とか胃痛といった日常的な病にはほとんど無縁の母であったが、五十歳を過ぎたころに脊椎滑り症という大病を患っている。 脊椎の関節がずれて寝ても起きても痛みに苛まれるという数年を過ごしたのである。 手術を考えたもののリスクがおおきくて踏み切れず、痛みと折り合って生きるしか術が無かった。 その頃に母が最も不安だったのは半身不随とか下半身麻痺という状態に追い込まれることだっただろうと思い返すのである。  大正初期生まれの世代特有の無口な父であったし、彼は早くに母を亡くしたうえに祖父は家に居着かない日々だったから、いわゆる家庭的なという意味での生活を知らない人である。 だから、背中の痛みに耐えている母へ優しいいたわりの言葉などかける術を知らなかった。

幸いなことに、背骨の痛みは年を追うごとに薄らいでいったようである。 腰が曲がって手押し車や杖を頼るようになってからは、痛みを訴えることも無くなっていた。 今にして思えば、腰が曲がったことで背骨にかかる負担が薄らいだのだろうか。 七十を迎える前から長い坂道や階段は苦手であり、長時間歩くことも苦手であった。手押し車を押しながらも、上体を揺らしながらヒョッコリヒョッコリと歩くのが常だった。 孫たちと旅に出ても、階段が多い神社仏閣などでは父と孫だけを行かせて、自分は石段の下で待っているというのが常だったようである。

半身不随で寝たきりにもならず、亡くなる半年前までは家事も畑仕事も普通にこなしていた母が、死をそれほどに畏れていなかったのはなぜだろうかと考える。
自分の両親よりもはるかに長く生きたこと、年若い末の妹が先に亡くなったこと、嫁いできて長くおつきあいした近隣の友人たちが先に亡くなったことなども、彼女の死生観に影響しただろうと思われる。 でも彼女の死生観に一番大きく影響したのは中年の頃の病であったろうと思うのである。 六十前に寝たきりになる不安が目の前にある毎日だったろうし、そうなった自分そしてまわりの家族というものを考えたら、とても居たたまれない日々であったろうと思い返すのである。 それを乗り越えて八十を迎えてみれば、なが歩きや力仕事は無理でも日々の暮らしに大きな不自由はなく、腰が曲がり耳が遠くなっても家事や畑仕事をこなしてゆける幸せを感じていたのであろうと振り返るのである。

死線を越えたというか、寝たきりの不安を乗り越えて八十を迎えてみれば、もう十分に生きたという思いが大きかったのではなかろうかと振り返るのである。 そんな安心が「死ぬのは怖くない、もう十分生きた」という言葉になったのであろうと、母のことを思い出している。131214w-sazanka

昨夜の木枯らしですっかり葉を落とした鄙桜越しに、朝陽が昇ってくる冬の朝は心地良い。
山茶花が咲き始めている、定番の赤に加えて白の山茶花も開いている。 白い山茶花は花弁が色褪せてじきに茶色くなるのが難であるにしても、枝もたわわに咲く大ぶりな花が好ましい。

 

 

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