立憲主義が揺らいでいる。 揺らぐ立憲主義について議論する前に、そもそも立憲主義とは何であるかを明らかにしておこう。
2005年11月11日 日本弁護士連合会は「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」を公表しているが、このなかで立憲主義について次のように述べている。
「立憲主義の理念」
立憲主義とは、もともと権力者の権力濫用を抑えるために憲法を制定するという考え方のことをいい、広く「憲法による政治」のことを意味している、とされる。そして、近代以降に、国民主権・権力分立・基本的人権保障の基本原理を伴った近代憲法が成立して立憲主義が定着したため、これを近代立憲主義の意味で用いることが多い。
日本国憲法の根本にある立憲主義は、近代立憲主義の考え方を継承し発展させ、「個人の尊重」と「法の支配」原理を中核とする理念であり、国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義などの基本原理を支えている。《以上、日弁連サイトより引用》
この憲法の根幹というか国のあり方を規定する立憲主義が揺らいでいる。揺らいでいるからこそ、日弁連は2005年11月11日 立憲主義の堅持を求めるアピールを既に行っているのである。
第二次安倍内閣成立までは、「自民党の憲法改正論議のなかで揺らぐ立憲主義」であったが、第二次安倍内閣では、内閣総理大臣が国会等で示す見解として、立憲主義が揺らいでいるのである。
2013.07.03 参議院選挙の公示を目前に控えて、日本記者クラブで党首討論会が開催された。
この討論会で、福島社民党党首の質問に答える安倍総理《自民党総裁》発言がある。
※(福島社民党党首)「私は憲法は国家権力を縛るものだと思っています。立憲主義です。総理はこれに同意をされますか。もし同意をされるとすれば、自民党の憲法改正案はこれに則ったものでしょうか」
※(安倍総理・総裁)「まず、立憲主義については、『憲法というのは権力を縛るものだ』と、確かにそういう側面があります。しかし、いわば全て権力を縛るものであるという考え方としては、王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方であってですね、今は民主主義の国家であります。その民主主義の国家である以上ですね、同時に、権力を縛るものであると同時に国の姿についてそれを書き込んでいくものなのだろうと私達は考えております」
(注)独裁専制国家において民主憲法とか立憲主義憲法が機能した例など知らないのである。 民主主義の国家であれば立憲主義はないがしろにされてよいものではない。 多数派の横暴を防ぐ為にも、《麻生副総理の云う》忍び寄る国家主義を防ぐ為にも、立憲主義は機能しなければならないのである。 憲法九条について解釈改憲を進めようと云う安倍内閣は、まさに立憲主義を骨抜きにしようとしているのである。
第186回国会 2014年2月10日予算委員会における民主党長妻委員への答弁
○(安倍内閣総理大臣) つまり、憲法とはまさに権力を縛るためだけのものであるという考え方については、それは古いものではないかということでございまして、そして、その中で生まれたということについては、それは古いものではないか。
つまり、例えば、今我々が憲法を改正しようということについては、国家権力を縛るためだけにつくるということではなくて、むしろ、私たちの理想を、例えば前文が一番いい例なんですが、国のあり方、そして私たちの理想と未来について語るものこそ、それは憲法の前文ではないか、こう思うわけでございますが、その中において、当然、これは国民の権利をしっかりと、人権を書き込んでいくわけでありますから、その中においては、国家の権力が縛られていくということが書き込まれていくということは当然のことであります。
立憲主義は古いものだと、国会答弁で明言する内閣総理大臣が出現したと云うことが、テレビや新聞でほとんど話題となっていないことが驚きである。 安倍総理のすり替え議論や詭弁論法はもっと追求されなければならないと考える。予算委員会の議事録を改めて読むと、なぜすり替え論法やデイベートテクニック偏重議論が見逃されているのか不思議である。
《追求できない野党議員のレベルが低下したということなのだろうか。 低下したのは野党だけでなく、当然のことながら大勝した水増し与党議員のレベルも低下したのであろう。 国民は自らのレベル以上の政治家を得ることはできないというある種の諦観からすれば、ジャーナリズムも政治家も含めた国民のレベル低下ということなのであろう。》
安倍総理の予算委答弁を、もう少し判りやすく整理すると次のようになろう。
「我々が《安倍総理及び自民党が》憲法を改正しようということは、国家権力を縛るためだけにつくるということではなくて、私たちの国のあり方、そして私たちの理想と未来について語るものと思うわけでございます。 その中において、国民の権利をしっかりと、人権を書き込んでいくわけでありますから、その中においては、国家の権力が縛られていくということが書き込まれていくということは当然のことであります。」
答弁の前半と後半がちぐはぐなのである。
前半は、憲法というものは「国家権力を縛るためだけにつくるのではなく、国のあり方、そして私たちの理想と未来を語るもの」であるという。 総理が云う国のあり方がとても問題なのであるけれど。
後半では、「そのなかで国民の権利を書き込んでいくわけであり、国家の権力が縛られていくことも書き込まれてゆく」と述べている。 そのなか即ち、国のあり方や理想を語るなかで国民の権利を《も》書き込んでゆくということである。
もっと判りやすく云ってしまえば、「権力は腐敗するものであり、権力者は権力を濫用するものである。」という前提に立って、国家権力を縛るものとして立憲主義に立つ憲法が存在する。 権力者自身《内閣総理大臣》が、「権力は腐敗しません、権力を濫用しません。」といっても、パロデイーにしかならないのである。
参考までに自民党憲法改正案が示す「国のあり方」
※日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。
※我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。
※この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。
※すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
雨の草むらに花開くスミレである。
小さな可憐な花だけれど、繁殖力が旺盛で庭先の厄介者でもある。
この雨が上がったら、開花するだろうな鄙桜。
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