山法師開花

我が陋屋の庭のシンボルツリーと思っている山法師が咲き始めた。
まだ黄緑色を少し帯びている花が霧雨に濡れている。

まだ地味に見える花だけれど、数日の内には鮮やかな白さを増してゆくだろう。140505yamahoushi

『鄙からの発信・残日録』は、意図せぬうちに変わりつつあるようだ。 変わらぬ暮らしの日々をささやかに彩る花や木の移ろいを記すことで、何かのよすがを探しているのかもしれない。 我が心の移ろいを我自らが推し量るというのも奇妙なことだが、このサイトの移ろい漂うさまがそれを示しているようである。 この山法師にしてからが、毎年の開花時期も開花のさまも同じではない。 そのような年々の違いもあれば、似た年もある陋屋の移ろいを記すことが、残日録の残日録たる所以なのかなと思えてくるのである。

親爺が亡くなってから三年半になる。 亡くなった直後に彼の居室を整理し、多くの蔵書も整理したのであるが、とくに始末することなく納屋においた書庫にしまっておいた。 雨降りということもあって、ふと思いついて彼の遺品の中から日記の整理を始める。 拾い読みしているなかで、1954年5月2日の記録に目がとまった。 当時、父は40歳、小生10歳、弟9歳の頃である。《》内は茫猿の注である。

1954.5.2 曇  信夫、実夫をつれ名古屋にいく 六時家を出、八時着  笛吹童子を希望会館にて見せる。 熱田にいき、神宮参拝、松坂屋による 国宝展 あとから人の列が屋上までつづく 見ず。 信夫に社会科とは館《意味不明》 実夫に幼年クラブをかう 東山に行き動物園に入る。 パン、アイスキャンデーなどを食べ、象の曲芸、CBC《放送》公開録音 羊や猿の曲芸を見、電車にて広小路に帰り昼食、二時、ライスカレー、ハヤシライス、中華ソバを食べ 丸善にいき「ハクルベリフインの冒険」をかう。《多分洋書?》 途中ラジオ屋にてテレビをみせる。《1954.3.1NHK名古屋TV放送開始》

アイスクリーム 生ビールをのむ アイスクリーム五十円也《ビール代は記されていない。》
川瀬書店により瀧井孝作集 武者の「馬鹿一」をかう。 駅まで歩く。 アロハにて映画「ブラボー砦の脱出」など見たかったがやめ 電車に乗る。 名鉄名古屋駅工事中にて混雑、大須着七時、途中にて暗くなる。 信夫往復自転車 三角のり。

大須とは名鉄竹鼻線終点大須駅のことである。 竹鼻線は今は廃線となり、岐阜羽島駅と名鉄笠松駅間が残っている。 大須駅は当時の我が家から岐阜、名古屋方面に通じる最寄り駅だった。バス便などは無く、約6kmの砂利道を自転車で行くしかなかった。

父と弟と三人で何処かへ出かけた記憶などまったく無かったが、連休の一日、父は子供二人を連れて名古屋に遊んだのである。 自分が観たかったであろう洋画を観ることなく、子どもたちに当時人気を集めていた東映の映画「笛吹童子」を見せ、なぜか熱田神宮を参拝し、本を買い与え、東山動物園を巡り、街頭テレビも見せている。 タクシーを利用することなど考えられないから、名古屋駅前、熱田神宮、東山公園、広小路と市電を乗り継いで市内を巡ったのであろう。 自宅と旧大須駅とのあいだは、父は自転車の荷台に弟を乗せ、私は《たぶん》大人用の自転車を三角乗りして往復したようである。 田圃のなかの野良道を約6km、長良川を越えて往復する親子の姿が目に浮かぶ。 いま、父は亡く、弟が亡くなってからはや七年になる。

1954年《昭和29年》といえば、力道山のプロレスブームがあり、マリリンモンローが来日し、ローマの休日が封切られた年である。 我が家にテレビがやってきたのは、子どもたちが受験勉強を終えて家を出た、それから十年後のことだと記憶する。

 

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