2014年も今日をいれてあと残り三日である。
一年という時間の速さが、疾さと記したほうが実感に添うように思える一年だった。特に何か大きな出来事があったというわけでもないのに、年々疾さを感じるのは様々に例えられる。 一つは、過去の経過時間との対比が年々大きくなるからといわれる。二歳児の一年間は2:1だが、七十歳になれば69:1だからというのである。 もう一つは残される時間に限りが有ることを、年々より確かさをもって実感されるからともいう。
平均余命を引き合いに出すまでもなく、二歳児の未来は限りなく思えるものであり、七十歳になれば残す処何年とほぼ確かな実感を持って感じ取れるものである。他にも、新たな体験が年々少なくなるからだとか、ルーテーンワークが年々多くなるからだとか、様々にいわれる。
いずれにしても、この一年間の疾さは「あっという間」というのが正直なところである。平均余命からすれば残り何年などとは云うまい。「鑑定士残日録」も始めたばかりだし、庭に新しい樹木も植えたばかりである。残された歳月を、それほど確かなものでもない余命を数え上げて過ごすのは止めておこう。2014年が結構充実した一年だったと思えるように、来る2015年も充実して過ごしてゆきたいと願うのである。
明日は初孫が二歳の誕生日を、タイのチェンマイで迎える。孫と息子夫婦たちは年末年始をタイで過ごしている。タイからFaceBook家族サイトやiCloudを通じて、孫の写真や動画がほぼリアルタイムに送られてくる。 チェンマイの街中の食堂、トゥクトゥクに乗り風を感じてはしゃぐ様子、ナイトサファリ、ゲストハウス、エレファントキャンプ、古刹ワット・チェディルアンなどなど、見るもの聞くもの食べるもの総てが楽しそうな幼児の写真を眺めながら、孫の成長の早さも味わっている。
iPhot0で、二年前の写真、一年前、半年前の写真を見比べながら、ただギャン泣きするしかなかった頃、這い始めた頃、伝い歩きを始めた頃を思い出している。 まだまだ危なっかしいけれど、随分と早く走れるようになった孫に、次に会えるときを楽しみにしているのである。一歳過ぎまでは男児と間違えられることがほとんどだったのに、すっかり女児らしくなってきた孫を思って、この一年を振り返っている。
孫の誕生を記念して植樹した桜の手入れも怠らないし、陋宅に連なる雑木林も孫が歩きやすいように整えた。この暮れの鄙の雑木林は、茫猿が知る限り初めてと云っていいくらい美しく掃除されている。ジオラマ茫猿鉄道も撤去して、孫がプラレールで遊びやすいようにしたのである。 いつのまにやら、年に数日あるいは旬日も訪れてくるかどうか判らない孫のことを、暮らしの中心に考えている爺馬鹿がここにいるのである。
「 初暦 知らぬ月日の 美しく 」《吉屋信子》
身の回りに茫猿より年長の人たちが少なくなった。今年も業界の先輩がひとり逝き、親戚や近隣からも何人かが旅立っていった。数えまいとしても、身の回りに年嵩の人が少なくなってゆくのは、冷厳な事実である。それだけに、まだ見ぬ月日が美しくあれと願うのである。同時に美しく在りたいとも願うのである。 また、何事につけ、先送りすることは控えようとも考えている。限りある知らぬ月日を大切に過ごしてゆきたいと考えるのである。
鄙の雑木林は枯れ枝を整理し落ち葉を掃いて、射し込む冬日に映えている。
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