走り過ぐ連休

先月28日から昨日8日まで、我が陋屋を朝早くから賑わせていた笑い声、泣き声、ドタバタ走り回る足音が、今朝は聞こえてこない。 海外単身旅行に出かけた長男とは別行動で我が鄙里を訪れていた嫁と孫が、連休が終わるとともに東京へ帰ったのである。

戻ってきた静けさは日常なのに、なぜか侘しさが付きまとう閑かさである。 滞在八日目頃からは、やや疲れが見えていた老妻なのに、今朝は湯のみを片手に「静かだねー」と、ため息まじりにつぶやいている。

「ジージー、バーバー またね」と東京へ戻っていった孫娘は可愛さとヤンチャ盛りの二歳半である。 「パパ 何処へ行った?」と言いながら、嫌がりもせずというよりも先立って服を脱ぎ、毎夕一緒に入浴してくれた。ジージの膝に寝て、バーバに洗髪してもらうと目を細めて気持ち良さそうだった。

孫の為に用意した”仮設ブランコ”、”仮設鉄棒”、”トーマス(六畳間一杯のプラレールを孫はトーマスと呼ぶ)”などを今朝は撤去するのである。 過ぎてしまえば束の間だった「晴れの十日」は終わり、今日からは褻(け)の日々が続いてゆく。

昨日は母の五年目の命日だった。嫁と孫が持参した菓子をお供えして、短いお経をあげながら在りし日の母を偲んだ。 春休みや夏休みが近づくと、老境の母は孫たちが訪ね来るのを心待ちにしていたものだが、彼らが帰っていった後の数日は虚脱していた様子を思い出した。

今朝の「農家の嫁の事件簿」には、こんな一節があった。 「親戚のこどもたちも、それぞれ個別の用事も大事な時期になってきて、いつまでみんなでワイワイできるか、とふと思う近年。」
子供の成長は早く、爺婆の老化もまた速いことであろう。 たぶん、いや間違いなく今だけの楽しさであり可愛さであり、嬉しさなのであろうと思っている。 その今を楽しまずして、なにを楽しめと云うのか、今朝はそんな気分である。 とりあえずは、連休の間に溜まった野良仕事を一つずつ片付けるとするか。

今年も命日に合わせるように開花した、亡き母が丹精したシャクナゲに戯れる孫娘である。IMG_1030

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