梅雨のまにまに

しばらく前は乾いていた畑が、今は湿って泥濘む日ばかりである。そんな梅雨どきのまにまに、薄日に誘われるように木槿や夾竹桃が咲き始めた。

庭の隅に植え付けて三年目の木槿であるが、この夏は一段と多くの蕾をつけている。20150621mukuge夾竹桃は白い花が咲きはじめている。紅い花はまだつぼみである。20150621kyoutiku過日のクローズアップ現代だったか、NHK特集だったかで、「漂流する高齢者」と題して、高齢者の犯罪増加、キレる年寄りが増えたとか、年寄りストーカーなどを話題にしていた。

かつての高齢者のイメージは、穏やかで悠々自適、あるいは時には辛口の小言も言うけれど世慣れた訳知り者などというものだった。それがいつの間にやら世の中の持て余し者になり、若者世代のお荷物などとも言われるようになってしまった。

なぜだろうかなどと考えるのも忌々しいことだけれど、一つは年寄りが増えすぎたせいだろうと思う。数が多くなれば見逃されたことも許容されたことも目障りになってくるのは世の習いだろう。 数が増えれば社会も支えきれなくなってくるから、社会保障も行き届かなくなり生活不安を訴える高齢者も自ずと増えてゆくのであろう。

古来稀なりとか喜ばしい齢だともてはやされなくなれば、還暦はまだまだ生々しく、古稀も喜寿も珍しくもなくなっているから、年寄りの側も長生きすることに意味を見つけ難くなり愚痴のみが増えてゆく。 元気な年寄りは元気のはけ口が見つけ難くなり、齢とともに堪え性がなくなり、怒りっぽくなったりよからぬことに逸れたりするのであろう。

病院へ行けば待合室にたむろする似たような年寄り病者に、当たり前のごとく自らの行く末を見せつけられる。平日昼下がりのショッピングセンターや公園のベンチにたむろする年寄り暇持て余し族の姿を、鏡に映る自らの投影のごとく眺めるのである。

現代の姨捨山であろう特養ホームは空き部屋待ちに数年を要すると云うし、介護老人ホームは高額すぎて高嶺の花だろうし、近いうちに配偶者の介護に追われるか独り暮らしになるだろう今の暮らしを変えようも無く、息子も娘も頼りにならず、年金だけでは生活できず、貯えも乏しく収入の道も閉ざされている。そんな年寄りが日毎に増えているのだろうと思われる。 今は何とかなっていても、一年後二年後にどうなるのか、大病を患ったら、不時の出費にみまわれたらと思えば不安がつのる人も少なくなかろうと思うのである。

過ぎたるは及ばざるが如しなのであろう。 高齢者が増えすぎたから、年金は支払超過に陥るし、高齢者医療費が止め処なく増えるし、なによりも高齢者の有り難味が失われてしまった。その割に元気すぎる年寄りは世の中でますます目障りになるばかりであろう。

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