iPhoneに遺る足跡

ふと思いついて、iPhoneに残されている、今となっては遺されている友との交信記録を探してみた。元気なうちは、音声通話だけでメール交信は無かった彼であるが、脳梗塞の後遺症で会話が辛くなってからは、数は少ないけれどショートメールの利用LOGが残されている。 iPhoneから消えてしまわないうちに、保存して残しておこうと思うのである。私的な、極めつき私的なBlogであるが、とても大切なLogなので交遊小史と併せて記録する。《彼に関わる記事は”タグ:友よ”で検索可能、幾つかの記事は写真を挿入するなどの再編集を施す。

《iPhoneに遺されているショートメールの整理保存を始めたのだが、まだ破却処分せずに保存してあるDOSV機Endeavorに残る彼からのメールも確認し、抜粋保存することとした。》

Thu, 13 May 2010 18:33:16
お疲れ様でした。ようやりました。ありきたりの言葉ですが、母上も感謝・感謝で旅立たれたことでしょう…落ち着いたらいつでも上洛して下さい。
《母を亡くして五日目にもらったMailである。報せはしていないが、このサイトの記事を見つけての弔問と記憶する。》

Sat, 15 Oct 2011 22:44:10
返事遅うなってごめん。19日に日帰りで寄せて貰います。
出発時間なんかはまた松田と相談して連絡するわ 。

Sun, 13 Nov 2011 13:56:33
こちらこそご馳走になって、たっぷりおみやげも貰ってありがとう
そちらは静かでゆったりした雰囲気やから、
時間もゆっくり流れるんかと思ってたんやけど、
模型とご馳走とお喋りで時間の経つのがほんまに早かった。
実は、明日からまた新しい抗がん剤を飲むんやわ…
残念ながら今後1ヶ月程アルコールがあかんらしいね。
済んだら京都で飲もう。宜しく

2011.11.12
この年の夏前に《親族以外には内緒にして》肺癌の手術を受けた後、抗がん剤治療を続けていた中村君が小康状態を得たので、松田君の運転する車で我が家を訪ねてくれた。 茫猿鉄道のジオラマで遊び、庭先でのBBQで麦酒を飲む。写真を見れば屈託なく談笑する彼であるが、大瓶半ダースくらいは軽く空けるビール好きの彼が、レギュラー缶五個も飲まなかったと憶えている。201507NAKAMULA

《この日の日記から》中村と松田が訪ねてくれた。半日呑み食べジオラマで遊んでくれた。 中村は明日から新しい抗ガン剤治療を始めるという。辛いことだ。

1982SHINGP

1982年ころの彼《左》と私である。私はパーマをかけている。撮影場所は不明であるが、たぶんマレーシアだろう。彼が役員を務めていた三条商店街初の海外旅行企画に、席に余裕ができたから数も賑わいのうちと誘われて初の海外旅行に行くのである。

この時に誘われた理由が、「俺は役員だからお前に付き合えないが、独りで放っておいても大丈夫なお前だから。」というのである。パッケージ旅行でありながら、2/3は単独自由行動という旅だった。独りで歩いたシンガポールの町並みの話などを、食事の時などに同行の誰彼に尋ねられた記憶が有る。

Mon, 09 Jan 2012 15:50:33
柿羊羹ありがとう  お礼遅くなって申し訳ない
今まで病気の自覚症状も見かけの症状もなかったから元気やったけど、
さすがに髪の毛がしっかり抜けていくと癌やと言うことを思い知らされてる…
明日から後一年となった仕事が始まるんで沈んでられへんけど。

2012.04.20
闘病する彼を見舞い、縫谷、松田と久闊を叙し、二条城前に御衣黄桜を探す。久しぶりに四人が食べ呑み歌った。楽しかったなあと思い出せば、四人揃っての宴会はあれが最後となった。《写真を見れば、この時の彼は抗がん剤の影響で載帽している。

Wed, 03 Apr 2013 18:50:37
ご無沙汰!元気!
松田とまた邪魔しょうか、と話してるんやけどええかな?
いつ頃がええやろ? こちらはふたりとも無職やから…
Mon, 15 Apr 2013 16:58:51
明日、天気良さそうなんで男ふたり寄せて貰います
こちらを10時前に出発する予定。宜しく(^^)/
Tue, 16 Apr 2013 20:02:21
先程戻りました。ご馳走になりました!
久しぶりにいろんな話が出来て楽しい1日でした!
ありがとう!
Wed, 17 Apr 2013 20:59:38
先程晩御飯を食べました。
あなたの言う通り美味しいほうれん草でした!
うちの奥さんが早よお礼のメールを、と急かされました。
ご馳走さんでした。
《彼が脳梗塞に倒れる四ヶ月前に我が鄙里を訪ねて来た折りの、Mail4通である。肺癌手術から順調に回復しているように見えた頃である。柔やかに語る彼の顔が、メールのあいだから浮かんでくる。この時には仕事はほとんど手仕舞いしていたと記憶する。この4通のMailも、まだ処分せずに保存してあるDOSV機に残るものである。》

2013.08.25
松田、飛田、垣東と四人でナゴヤドームで野球観戦を予定する数日前に脳梗塞で倒れ入院する。試合後の宴会に合流予定だった私が観戦にかり出される。
2013.08.28
見舞は謝絶されているので、《奥さんの眼に止まらないかと、》病状を案じて送ったメールにRESはなし。《後に、脳梗塞発症は抗がん剤治療副作用の疑いが濃いと聞かされる。》

2013.10.11  17:12
「森島です。このメールを読めるかどうかわからないが、京都へ来て祇園によらずに帰るなんて、何年ぶりだろう。」自宅療養する彼を見舞った帰り、新幹線に乗った後に送る。
2013.10.11  19:57
「今日は、ありがとう」と二時間後に返事あり。《これが iPhoneに残る彼からの最初のショートメールである。》

2013.12.07  22:06
「今日は、遠いところわざわざありがとう!」と《自家製干柿を持参しての》見舞の礼あり。病気療養中の縫谷の見舞を兼ねて、蟹を食いに行かないかと誘うと、「私はOK」とRESあり。この時は縫谷の都合も有り実現せず、あらためて後日、鳥取行きを企画する。

2014.03.06  16:47
「月末に湯村温泉か岩井温泉へ行こうかと考えてます。シーズンが終わる蟹はその時の運任せ。縫谷君とは現地合流の予定」《茫猿》鳥取行きを企画する。

2014.03.07  20:16
「28日夕方に縫谷と合流します。宿は彼が探していてくれます。蟹の漁期は終わっているけれど、彼の計らいで宿が生簀に残しておいてくれるようです。何か希望がありますか?」《茫猿》
2014.03.07  22:04
「こんばんは 何度もメールをありがとう 温泉旅行を楽しみにしている。」《中村》

2014.03.09  21:20
「浜坂へは車で行くかJRで行くか決めて下さい。君の体調を優先したいと考えます。」《茫猿》 「松田が自分の車で行く、と言っている。」《中村》
2014.03.21  22:15
「今晩は 28日からお世話になります お医者さんには旅行は多いに結構と云われた。ただ、未だしゃべれないので 迷惑かけるけどよろしく!」 《中村》
結局のところ、奥さんの体調不良で中村は直前にキャンセル。彼抜きの旅行となる。宿が用意しておいてくれた松葉カニを土産に届ける。

2014.07.04 9:14
「今日は、家に居ますか、居れば顔を見に行こうと思ってます。」《茫猿》「午後空いています。今からリハビリに行って、一時には帰っています。」 《中村》

《この日の日記より》久しぶりに朝から雨である。 ふと思い立って、中村の見舞に出かける。ジャガイモ、ニンジン、トマト、ナスビなどを手みやげに背負って出かける。 約二時間話して帰宅する。 顔の色つや良く、元気そうである。 マンションを購入し月末には終の棲家へと引っ越しの予定と聞く。

「女房の家も確保したし、俺の為すべきことは終わった。」と、言葉にならぬ声でつぶやく彼に、安堵感をにじませているのを感じる。
2014.07.04 20:43
「遠いところ、ありがとう。」 《中村》

彼から届いた最後の暑中見舞いである。脳梗IMG_1129塞罹病後は手も不自由だからワープロ打ちだが、旧住所発信、私宛だけのただ一通の暑中見舞いである。消印はH26.07.14である。 07.04に鄙畑で採れた夏野菜を背負って運んだ時の礼状をかねた暑中見舞いである。この後、転居通知をもらったのは十月のことだった。転居した新しい住いを訪ねることは、翌年二月までなかった。

どんな理由があって空白の半年間となったのか、思い出そうとして僅かな記録などを確かめているが思い出せない。特に理由などなくて、日々の生活に追われてできた空白なのであろうか。確認してみれば、2014年後半は「鄙からの発信」の更新もずいぶんと間遠なのである。いずれの折りに、この半年間の記事を一つ一つ読み返してみようと思っている。記事の断片のなかに、見舞いが間遠になったわけが見えてくるかもしれない。

この後しばらくは保存されているメッセージもない。びわ湖会議の翌日に転居先へ訪問すると報せたメッセージへのResが最後のメッセージとなった。それは顔文字入りだった。
2015.02.23   19:40 「待っています 宜しく (^^)/ 」《中村》

《2015.02.28 びわ湖会議翌日の日記より》 久しぶりに中村を見舞う。昨年末に、近所に新しく購入した彼の新居は3DKのマンションだった。 玄関に出迎えてくれた彼を見て驚いた。 杖を付き歩行もおぼつかなくなっていた。 顔の艶もなく、目の光も衰えていた。 奥さんも体調を崩して通院しているという。 「お前に会えるのも、これが最後かも」と言う、沈んだ彼を慰める言葉も無い。 買い物から帰ってきた奥さんのやつれ方も、正視できないほどだった。

春が深くなって、畑の野菜がとれたら、また来るよと言って帰ってきたが、玄関においてあった車椅子が、胸に迫る。《彼の新居訪問はこれが最初で最後となった。亡くなった後に判ったことだが、このとき彼の癌は腰に転移していた。》

ここまで書いてきて思わされる。生きていればこそであろう。生きていればこそ取り返しもつく、十全の取り返しは無理でも、気持ちの落とし処くらいの取り返しなら付くだろう。泣こうが喚こうが、怒ろうが罵ろうが、取り返しは付く。 この世のことはこの世で何なりかの落とし前は付けられるだろう。フォローだって補充だって、それなりに可能だろう。 でも幽冥世界を異にしてしまえば、もういけない。なんとも虚しい話になってしまうのである。我が心うちでのけじめのつかない行きつ戻りつになってしまう。心模様だけというしまらない話になってしまう。

また一つ、生き死にのまだら模様にもてあそばれる頼りない心模様を思い知らされている。こうやって一つ一つ身近な大切な人との別れに、慣らされてゆくのだろうか。 その涯に沈みや淀みを積み増して、少しくらいのざわめきでは揺れない心の澱《おり》を重ねてゆくというのであろうか。 なによりも、この心模様を彼に伝える術が今はもう無い。

 

《追記》2014.07から2015.02までの見舞の空白がなんとも不思議で気になるから、この間の日記とサイト記事を読み返してみる。 盆の頃は8.11から8.25まで孫が居た。九月末には老妻と奈良に遊んでいる。11月末には孫と伊豆に遊んでいる。暮れるにはまだ間のある残日の日々を、なにやかやと過ごしていたようである。そして、今年の正月に、こうも書いている。「先ずは一月、闘病生活を続けている古い友を見舞いたい。もう半年も見舞っていない彼は、順調に回復しているようであるが、その予後を尋ねたいのである。」

結局、一月中の訪問は叶わず、二月の末に訪れて先に転載する日記に記すごとく、彼の衰えように驚き無沙汰を悔やむのである。

もう一度、2014.07.04前後の日記を読み返して気づいたことがある。
【帰宅して夕食を終えた頃、奥さんよりお礼の電話あり、内容が良く聞き取れなかったが、「抗がん剤治療」に何やら問題が生じている様子が窺えた。 彼が今の家に居るうちに見舞うことができて、なにやら判らないけれど良かったという思いがする。】
気付いていなかったのである。何やら問題が生じていると記していながら、彼の転移症状の始まりには気付かず、翌年春に再訪するまで「順調に回復している」と思い込んでいた迂闊さが悔やまれる。

今さらである。気付いていたとして、病床を見舞う回数が二度か三度、増えただけのことで、今さらに悔やむことが目減りしただけのことである。度し難いと思う、つくづく度し難いと思う。所詮、心模様のゆらぎだけというしまらない話である。

 

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