死者は記憶に生きる

中村博一君の葬儀を終えてから、虚しさと寂しさに絡めとられていた気持ちが、今朝は少し楽になっている。彼のメモワールの推敲と校正が一段落ついたせいもあるだろうし、一昨日昨日と躯を動かし汗を流したせいもあるだろう。

一昨々日、近くに住いする従兄弟が九時間に及ぶ手術を受けた。幸いに経過は順調で昨日見舞ったおりも、笑顔で応対できる回復状況だった。従兄弟とはいっても父の妹と母の弟とのあいだに生まれ、眼と鼻の先に居住し幼い頃は子守りもしたという間柄である。数年前に弟を亡くし父母を亡くし叔父を亡くした茫猿にしてみれば、今や弟以上の頼りにする存在である。 この彼の手術とその後の経過を案じているうちに、中村を悼む気持ちと従兄弟を案じる気持ちが入れ替わったようである。


死者は記憶に生きている。だからといって、座り込んで亡き人の追憶に耽っていてばかりでも死者は喜ばないであろう。 母を無くした時も、父を亡くした時も、ひたすら躯を動かしていた記憶がある。その昔、娘を亡くした時はただただ仕事に没頭していた記憶がある。追憶に沈んでいては堂々巡りの螺旋下りに落ち込むばかりである。

だから、躯を動かしはじめた。一昨日も昨日も小雨模様の中を伸びた草を刈っている。汗を拭きながら一心不乱に動力鎌を振るって草刈をしていれば、しばしのあいだは忘れていられる。それでも苅り払ってさっぱりした畑や林や土手を眺めると、「父も母もこの畑を見ることはないし、中村がこの庭にやって来ることもない。」という思いが湧き上がってくる。我が仕事の跡を見てほしい人が、ひとりまたひとりと私の廻りから消えてゆく。

六十を過ぎてから、弟を亡くし、父母を見送り、叔父叔母を送り、何人かの友人や知人を送った。中村君と共通のふるい友がこうも言う。『虚しさ、寂しさがつのる今日このごろです。それにしてもあの世にいる肉親、親戚、友人、知人の人数がこの世にいるその人たちと変わらなくなって来ました。また冥土で先に行った人達と楽しく過ごせるならそのうち行くのも悪くないと思っています。では、おやすみなさい。』

年を重ねると云うことが、あの世の縁者が増えてゆくことであり、死ぬことが身近になってくると云うことなのであろう。それにしても、両親をはじめ、縁者友人を送るたびに、悔いが残る。だから、悔いを残さないように、今日のことは、明日に廻さず今日のうちにと思っているが、思うようにもならず、悔いはいつも残る。

死者は、残された者の記憶にあるあいだは生きていると考える。折りにふれ機会ある毎に、縁ある者が思い出を語ることで、死者は生きている。中村のメモワールを記事にし、関わる記事にタグ”友よ”を付けながら、彼に関わる記録を読み返し、写真を眺めている。

その残る記憶も衝撃の日が過ぎて、一日一日が過ぎてゆくうちに薄らいでゆく。忘れてしまうということではない。思い出すことが、日毎に間遠になってゆくのである。こうして、父母のことも弟のことも叔父叔母のことも記憶から薄れてゆく。

先の記事で、「こうやって一つ一つ身近な大切な人との別れに、慣らされてゆくのだろうか。 その涯に沈みや淀みを積み増して、少しくらいのざわめきでは揺れない心の澱《おり》を重ねてゆくというのであろうか。」と記したが、心の澱の底に縁者の記憶も沈ませてゆくのであろうし、それがまだ生きていると云うことでもあろう。

そうは言いながらも、畑にいれば植え込みの影から腰が曲がった躯を揺すりながら母が手押し車を押しながら現れる気がする。父が草箕を小脇に抱えて歩いてくる気がする。「ヨオッ」と言いながら片手を挙げて中村が顔を出しそうな気がするのである。

いつの頃からか、父母が亡くなって暫く後からのことと思う。縁者友人知人の葬儀やお別れに枕経を捧げるのがならいとなった。通夜勤行のお邪魔にならない時を見計らってご遺族のお許しを得て枕経を詠み上げるのである。 小柳町の叔父、益雄叔父、中村は通夜勤行の前に、岩田先輩、村北は弔問のときに正信偈を一巻詠み上げた。そして、折々に時々に、そういった先に逝きし娘、弟、両親、叔父叔母従兄弟、友人縁者を偲んで仏壇の前に正座して正信偈を詠むのである。 帰依したと云う訳でもないし信心深いと云う訳でもない、娘や弟そして父母を送った正信偈を声高く朗詠すると、なんとなく一つのカタルシスを味わう心地がして心がやわらぐのである。

 

 

 

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