中村博一、その存在

数多くのサイトが溢れている中で、せっかく、このサイトにお立ち寄りいただいた方には申し訳ないことだと思っています。この半月ほどは、旧友を悼む記事ばかり書いています。私的と云えば極めて私的な我が心情綴り方であり、心象風景の羅列ばかりだから、読んで頂いても気鬱になるばかりであろうと申し訳なく思っています。

そう思いながらも、我がメモワールとして記しておきたいことがまだあります。 親元を離れて京都で下宿生活を送っていた私にとって、中村と云う存在がどれほど大きなものだったか、彼の友情によって我が学生生活がどれほど彩り豊かとなったか、彼を亡くした今改めて気付かされているのです。

彼をホスピスに見舞った時に、「君のお陰でどうにか卒業出来たし、まあまあ面白い学生時代も送れた。ずっと感謝してるよ、ほんとうに有り難う。なにより、一緒に留年してくれてありがとう。」と伝えました。深刻にならず、冗談めかしてサラッと伝えたつもりです。そんな私の思いを、この機会にもう一度振り返っておきたいのです。

大学一年の時、家の事情もあるにはあったが《家の事情と言い切ってしまっては乏しい家計をやり繰りして私と弟に仕送りをしてくれた両親に申し訳が立たないのである。》、一般の師範学校卒業生と比べれば十年も遅れて教師生活を始めた父であるから、同年代の同僚と比較すれば給料は随分と少なかったようである。その乏しい給料を東京に進学した次男と浪人して一年遅れた長男とに二分割して送金してくれていたのである。そんな家の事情と浪人しながらも、我侭さから国公立校に進めなかった負い目もあって、親の負担を少しでも軽くしたいと、進学早々にアルバイトを始めたのである。

アルバイトの経過を思い出すと、1年生の四月から七月までは、新聞の求人広告で探した河原町今出川角の喫茶店でバーテンのアルバイトをした。毎日夕方五時から十一時まで皿洗いに始まるバーテン見習いである。 七月のいっときは河原町蛸薬師の志津屋のビアガーデンで働いた記憶もある、一週間ほどだったろうか。《1963年》

八月から翌年の七月まで、三条京阪前のナイトクラブ・ベラミでボーイとして働いた。後に田岡組長襲撃事件が起きるナイトクラブである。当時は京都一、関西一、東京にも鳴り響く高級クラブだった。大阪キューバンボーイズという専属バンドも抱えていたし、ショーも超一流で越路吹雪、朝丘雪路などのショーを憶えているが、そういう一流エンターテナーが出演する時は客席も一流だった。石原裕次郎や勝新太郎などが取り巻きや芸妓さんを連れて来店していた。

話は逸れるけれど、この時一年間のベラミ勤務が、40年も後になって統合されていない年金番号事件につながることになる。 社保庁の現場にて  )

私がベラミに勤めていることなどを知った、下宿のおじさんが、喫茶店経営を思いついたのである。宝ケ池国際会議場も建築され、銀閣寺から八瀬大原岩倉へ抜けるおしゃれな街道筋になりつつあった北白川通一乗寺に「喫茶ルーブル」を開店し、学生マネージャーとして迎えられたのである。従業員の送迎のために運転免許の取得を援助され、中古車ながら送迎車も専用車として貸与されると云う学生としては破格の待遇を受けていた。《1964年10月》64lubul
田圃が多い当時の北白川では、お洒落な三角屋根を持つひと際眼を引く喫茶店だった。ベラミの先輩に実務を助けてもらい、下宿の後輩達が音楽をプロデュースして、ジュークボックスが置いてあったし、BGMはカントリーウエスタン、たまにはデキシーランドJAZZを流すという店だった。ジュースはフレッシュ、珈琲は使用する豆の質と量にこだわるというコンセプトを大事にする店だった。珈琲豆卸業者の案内で、開通したばかりの新幹線に乗って六本木や羽田のカフェテラスを見学に行ったという記憶もある。だからかどうかは判らないが、オーナーが驚くほど流行ったことを憶えている。 それ故にマネージャー稼業も大変だったと記憶している。写真は、十一時の閉店前に追加のビール注文を断って、ヤクザ屋さんに殴られたこともある、生意気盛りな当時のルーブル・マネージャーである。

下宿の親父の道楽的な商売に始まる喫茶ルーブルは、《その後の詳しい経緯は何も知らないし、当時の建物も残されていないけれど》その後紆余曲折を経て、その後継店・茶又が今も北白川通に和食の店として存在している。 茶又とは修学院や一乗寺辺りの旧家ならば一様に持っていた、それぞれの家の屋号である。

しかし、従業員十名余、席数三十前後の喫茶店マネージャーと学業との両立はとても難しく、それ以外の事情も重なって一年後にはルーブルを辞め下宿も出て、新しく高野交差点近くの喫茶フジに勤めるようになった。喫茶フジはママと二人だけの小さな店で卒業までの三年近くを勤めた。ルーブルを辞めるに付いては、様々ないきさつがあったが、この時も中村に世話になったと記憶している。

学業は惨憺たるものであり、特に第二外国語は出席日数が足りずに、一年次二年次三年次と連続して単位を落とす始末だった。ルーブルを辞めてフジに落ち着いた三年次終了時には、五年卒業が確定していたと云うことである。四年次五年次となんとか修了して卒業に漕ぎ着けたが、長いこと第二外国語の答案を書けずに冷や汗をかく夢にうなされたものである。先に「一緒に留年してくれた。」と記したが、彼の名誉のために付け加えておけば、私は出席点必須の第二外国語を落としての一年留年であり、彼は科目は忘れたが何かの単位を落として、追試を受けることとなり、六月卒業となったのである。《1968年3月》

思い出せば、こんな不出来で危なっかしい学生生活を送る私に、親から小言らしいことを言われた記憶が無い。諦めていたのか、それとも不出来な息子ほど可愛かったのか。ただ一年留年した時だけは、親戚や知り合いなどに言い訳するのに窮したらしい。この頃に親父が何も言わなかったのは、放浪生活を繰り返した自らの青春時代を振り返ってのことかもしれないと思う。 この私だって、我が身に照らせば、息子達には何も言えなくなるのである。

長々と不出来な学業生活を記したのには訳がある。中村と知り合ったのは、同志社大学一回生の春のことである。その後順調に学業生活を進めていれば、それなりに友情も育んでいったのであろうが、私はろくに出席もしない落ちこぼれ学生となっていた。そんな私との交流がどうして続いたのか、今にして思えば不思議なのである。落ちこぼれ学生との付き合いを断ち切らずに続けてくれていた、彼の心情について今はもう聞く術も無い。

中村がベラミに来ることは無かったが《学生の身であれば当然のことである。私にしてからが、客としては、ルーブルを開店して暫くのちに、オーナーを案内して一度か二度、足を踏み入れただけである。》、ルーブルやフジには足繁く通ってくれたと云う記憶がある。彼は、在学中から家業の紳士服洋品店を手伝うと云うよりも、やや病弱だった父を助けて中心となって働いていた。だから、当時は数少なかった運転免許証を持ち、ほぼ専用とする車も持っていた。彼が初めて持った専用車は初代の水色のマツダ・ファミリア・バンだったことを鮮明に憶えている。

こうして、普通だったら途切れてしまっていて何の不思議も無い付き合いが、彼が私に声を掛け続けていてくれたおかげで、その後52年余も続いたのである。彼をハブ《交流点》として、今に続く多くの出会いがあり、私の学生生活を豊かに彩ってくれたのである。彼に感謝しても感謝しきれない所以なのである。

彼にとって私と付き合うことに何かの意味があったのだろうかと考えてみるのであるが、何も思い出さない。遊び仲間としては、夜の世界に多少の顔が利いたくらいかなと思い出すのである。「先斗町の鳩」、「東富永町の美代家」それにルーブルとフジも仕事の合間に憩うにはほどほどの店だった。 今となっては、そんなことはどうでもよいのである。彼が私と半世紀も友情を繋いでくれたということが何ものにも代え難いのである。

自分ではそんなに難しい男とは思わない、照れ屋で人見知りするだけのむしろ単純だと思うけれど、傍から見る私は随分と気難しくときにややこしい男に見えるようである。そんな難しい、だからたぶん鬱陶しいだろう男と五十年の長きにわたって、よくもまあ途切れない交流をつないでくれたものと、残された写真で彼の温顔を偲ぶのである。《前列右・茫猿、二人おいて前列左・中村、1968.03大学構内にて》1967卒業

これで、中村君のメモワールは一区切りにしようと思っている。改めてタグ”友よ”で検索して彼にまつわる思い出を読み返し、私が如何に佳き仲間に恵まれた人生だったかと、中村君をはじめ彼らにそっと礼を云うのである。
十五年前、皆がまだ若かった 祖谷のかずら橋   )
この日から既に三年が過ぎた 久闊を叙して御衣黄 (  )

《閑話休題》
ふと思いついて、北白川・茶又、先斗町・鳩、東富永町・美代家でGoogle検索を掛けてみた。茶又では数件の食べログ関係がヒットした。美代家については何もヒットしなかったが、鳩については、「芸妓のときの豆弥という名前から鳩という店名が生まれたこと、プレスリーの大ファンでラスベガスまで出かけたこと」等々の懐かしい話がヒットした。

ルーブル時代の茫猿が鳩の女将と、開通したばかりの名神高速道路に乗って、深夜の大津SAまでカレーを食べにいったということもあった。 女将は茫猿のお袋と同年代だったが、様々な色街の仕来りや粋と野暮について教えてもらったものである。幾たびかの勘定は、”あんたはんの先輩に付けときましたえ”ということもあった。親爺ほどの先輩のツケは多分会社送りになっていたのだろうが。 男子トイレにはいつも杉葉が敷き詰められていたし、墨痕鮮やかに「手を添えて 外に漏らすな 松茸の露」と書かれた短冊が張ってあったと記憶する。

《閑話休題》ところで”鬱”という字だが、手軽に変換してくれるけれど、どうやら二種類あるようだ。鬱に欝である。OS X辞書ではどちらも同じ意味である。広辞苑を開いてみてもその違いは何も書かれていない。手許にある漢和辞典を開いてみたら、欝は鬱の俗字とある。しかも部首が違っている。

 

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