梅雨明け十日

梅雨明け十日という言い回しがある。梅雨明け後の十日くらいは好天が続くと云うことである。当地方は昨日、梅雨明けが気象台より発表された。一昨日も晴天だったが、まだ湿気を感じる暑さだった。昨日はさわやかな風が心地よい晴天だった。今日は驟雨である。一年でいちばん蒸し暑く感じるこの時期であるが、今年は過ごし易い。

安倍総理が自民党のライブチャンネル・0ch Café Sta に出演している動画が話題になっているかと思ったら、フジテレビにも出演した番組がYoutubeに流されている。

やくみつる氏が漫画で「裸の総理」と揶揄するなど「フジ・サンケイ系列TV」にしては厳しいところも垣間見せる番組だったが、本来は政府広報に大きく理解を示しているサンケイグループなのである。それなのにというか、それでもこの程度しかフォローできていないと云う、突っ込みどころ満載の番組だった。

どうしても国民を愚弄しているとしか思えない、安倍総理の番組中例え話である。 隣家である米国の離れの火災に日本の消防士が消火活動を行うかどうかという例え話は、噴飯ものである。「殿ご乱心」と止める忠義者も居なくなったのか。 民生である消火と云う緊急防災活動と自衛隊の戦闘参加と云う実力行使活動を混同して議論する愚かさに御本人が気付いていない。 本来防犯対策であるサイバー攻撃防止とか振り込め詐欺防止策とか、この種の混同、すり替え議論があまりにも多すぎる。というより、そればっかりの愚民視的論議が多い総理である。

警察、消防、海上保安庁といった国内及び領海の治安と警備活動を任務とする組織と、自衛隊と云う自己完結型実力組織の行動とを完全に混同しているのが、安倍総理による一連の国会答弁であり、幾つかの説明や演説である。そのことは、PKO活動《国連平和維持活動》と後方支援活動《戦闘行為としての兵站行為》の混同にも表れている。

憲法9条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と定め、同条2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と定めている。
自衛隊が違憲なのではなくて、「国権の発動たる戦争と、国際紛争を解決する手段」という目的のための戦力は保持しないと定めるのである。 日本の国是並びに自衛隊が「専守防衛」である由縁なのである。

安全保障環境の変化として「中東のISIS」なるイスラム過激派組織の台頭をあげる論者が多いが、この背景にはアフガニスタンにおいてソ連と対峙するアルカイダを支援した当時の米国、その後も資金援助するサウジアラビア、そして武器を提供する多くの軍事産業国家の存在が先ず語られなければならないのに、表面的な現象だけが声高に語られる。

同じく東アジアでは北朝鮮のミサイルと核保有が脅威として語られるが、現実問題として北朝鮮に継戦能力は無いであろうし、中国や韓国が許すはずもないだろう。中国による尖閣諸島領海侵犯も脅威として語られることが多い。しかし、尖閣諸島周辺で領海侵犯を行っているのは中国コーストガード組織である。さらに日中国交回復時に棚上げされた領土問題をあえて俎上に乗せたのは当時の石原都知事による、尖閣諸島都有地化という「寝た子起こし」騒動があったことも記憶されねばならない。

集団的自衛権容認の根拠として1959年最高裁・砂川判決を持ち出しているけれど、そこに集団的自衛権など一文字も述べられていない。それよりも注意すべきは、「最高裁がしばしば述べる”統治行為論”という逃げ」である。安倍総理は今回の番組中でも統治行為論に言及していたし、しばしば”最高責任者”という表現もしていた。日本国政の最高責任者であることは疑いもない。しかし属人的に最高責任者とするには些かの疑義がある。総理大臣と云う存在は個人としてのオールマイティーなどではなく、行政機関としての機能的存在だと考えるからである。

個別自衛か集団的自衛かにこだわったり、神学的論争をするのは意味がないことであると同時に、米国と肩を並べて或は米国の後方を支援して世界に進出したいと考える人たちを利するだけである。 日本は専守防衛に徹する。戦争には参加しないし戦争を引き起こすことにも組しない。だから武器輸出もしない。それが十五年戦争で惨禍を体験した日本と日本人の覚悟なのである。

私は「ニッポン」という呼称が嫌いである。勇ましく鼓舞する呼称かもしれない。しかし、嫋やかで優しい「ニホン」という呼称が好きである。ウザイと思われる方が少なくないかもしれない。しかし、この夏は「専守防衛に徹するのか」、それとも「後方支援と云う兵站戦闘行為に参加を是とするのか」、マジに考えなければならない夏だと思う。子や孫のために。

総理の国会答弁、記者会見、テレビ番組での説明、いずれを聞いていても、何度聞いても、解釈改憲を行い集団的自衛権を《限定的にせよ》容認しようとする目的あるいはそうする総理の意思の背景が伝わってこない。支持率如何に関わらず安全保障関連法制は今国会会期中に成立させる、成立させたいとする強い意思の背景に存在するであろう、存在しなければならない国家観、総理の願う世界におけるあるいは東アジアにおける日本の拠って立つべき位置が見えてこない。見えてくるのは、戦後レジュームからの脱却を目指すと云う古ぼけてカビの生えた皇国史観とか国体護持というおぞましいものばかりである。八紘一宇論に背筋を寒くしたと云うのはそういうことである。

花見酒到来 :
惑わされない確かな眼を :

人類普遍の原理と高らかに謳い揚げる日本国憲法前文は、名文なのである もし集団的自衛権を唱えるのであれば、前文が述べている「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」ところにこそ、専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏などに立ち向かう集団的自衛権が発露されるものであろう。

これを平和呆けと揶揄してはならないのである。 たった今この時も、テロ、圧政、飢餓、貧困に苦しむ人々が地球上に多数存在していると考えることから、始まるのである。そのためのテロ・圧政・飢餓・貧困対策集団的自衛権であってほしいと考える。

《日本国憲法前文》
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

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