知人の送りにて

《2015.10.11》同じ町内に住む四歳年長の知人の葬儀にいってきた。
彼・勇次さんは、私が中学を卒業して村の神社の祭典を担う若衆組に入った時の、兄若衆の一人だった。若衆組には一年居ただけで、受験勉強に追われるようになった高校二年生からは遠ざかってしまい、それきりになった。 私が京都での学生生活と大阪での社会人一年生の生活を終えて帰京した時に、村の若い者たちがつくっていた”二月会”という親睦グループに入れてもらった。 勇次さんは、その二月会でも年長組であり、彼の穏やかで朗らかな性格から皆を取りまとめる和ませる役目を務めていた。それから、折々に顔を会わせれば、世間話を交わすお付き合いが先月まで続いていた。

彼は先月末まで仕事に就いていたそうである。体調を崩して自宅で療養をはじめ、先週には入院したそうであるが、入院後一週間も経たないうちに様態が急変してお亡くなりになったということである。《病名について伺ってはいるが不確かである。》

二月会のメンバーのうち、清治さん、佳宏さん、茂君、隆博君がこの数年のうちに逝き、そして一昨日には勇次さんが逝った。あの世で二月会が出来そうなくらいに、多くの知人が既にこの世を去っている。いずれも七十代、一部は六十代での死去である。半数は私より後輩である。

列席していた隣家のジュンコさんが言った。このところ若くして《とはいっても七十代で》皆亡くなっている。亡くなった人の親の代は八十代九十代まで生きているけれど、子どもの代は短命ともいえる。どうしてなんだろうね。今の時代では早逝とも云える七十代での死亡は男性に限った話であり、いずれの連れ合いも健康で人生を謳歌しているのであり、そんな明るい寡婦たちの会話はなにやら胸にズシリと響くのである。

生有るものは皆必ず死を迎える。老少不定なのである。平均寿命が男性八十歳とは云っても平均値なのであり、事故死を除けば十歳プラスして九十過ぎまで生きる方も有れば、マイナス十歳の七十で亡くなる方もいる。もっと若くして病死する方もいる。気づけば、戸数五十戸ほどの我が鄙里で既に私より年長者は、片手で足りるほどとなった。

八十半ばを過ぎてからの親爺の寂寥感を伴った恐怖とはこういうものだったのだろうかと思う。長く生きると云うことは多くの知人友人の死を見送ることであり、着実に自らの死に近づいていることを実感させられることでもある。

長く生きたが故に味わう孤独感とか寂寥感とか、それに伴って思わされる、そこはかとない死への恐怖感。そういった類いの思いを抱いて、まだ生きているのである。

 

 

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