心残り

父母が世を去ってから五年が過ぎたが、父母の見送りに際しては心残りがある。その心残りも歳月を経ることで変わってきている。

亡くなった当座は、彼れもすべきだった、此れもすべきだった、もっとできたのにという心残りと云うよりも悔いに近いものだった。それが月日を経ることで、予期せぬ出来事だったと云うふうに変わってきた。九十歳前後と云う父母の年齢からすれば、死は遠いものではなくて、明日おきても不思議は無いと理解していたし、来月かもしれないと思ってもいた。でも心底、明日は無いかもしれないとは思っていなかった。今日のごとく明日もあると思っていたというか、楽観していた。まさに「明日あると思う仇心」なのである。

亡くなってはじめて、あれも聞いておきたかった。これも聞いておきたかったと思い出すのである。五年を経たこの頃では、一番肝心なことを聞き忘れていたと思うのである。

それは、死期が迫っていた母に、そして父に、「今そのとき」死をどのように考えているのか聞き忘れたと考えている。 母は不治の病床にあって、従容と死を迎えようとしていたと思い出す。「《もう死は近いが、》思い残すことは何も無いけれど、後に残るお父さん《彼女の連れ合いである我が父》のことを頼む。晩酌のお酒はあまり佳い酒ではないから、もう少し佳いお酒を用意しておいてあげて下さい。」、「孫たちのことが気掛かりだ。」 日々、顔を会わせれば、この二つを私に話すのが日課だった。

母が亡くなる前から、父の晩酌酒はグレードを上げていたのだが、肝心な父は六勺の酒を湯割りで一合にして飲むのが常だったから、「酒を変えたけれど、どうですか?」と聞いても、「よく判らん」と答えるのだった。 孫つまり我が息子たちのことについては、言われるまでもないことだから、「心配しなさんな。」と返すのも日課だった。

父は母が亡くなって半年後に病床についたのだが、往診してくださる医者も今日明日と云う診たてではなかった。 様々に衰えは見せていたし足腰も弱っていたけれど意識は確かだった。だから、軽い肺炎というその時の病さえおさまれば年は越すものと思っていた。でも介護用に用意したベッドで寝たのは僅か二日のことだった。師走一日に介護ベッドに寝るようになり、翌二日の夕刻には旅立ってしまった。

だから、父や母がその時に至って、心底、死をどのように考えていたのか、死期を悟ったであろう両親が何を考えていたのか聞き漏らしたのである。

三月の初めから病床にいることが多くなった母であるが、五月の初めには口数も少なくなって眠っていることが多くなった。時々は「あついお茶がほしい。」とか「何か甘いものが欲しい。」と求めることもあったが、求める声は日毎にか細くかすれてきていた。

母の介護日誌:2010.05.04 08:30(薄曇り、のちに晴れ、室内18度)より引用。
『朝食を済ませて部屋を覗くとお茶が欲しいという、お茶を一口飲ませてしばらくするとトイレと言うから、立たせてというよりほぼ抱えてトイレに向かう。支えバーに掴まらせても自力で立っていられないから、私が抱えて用を済ませる。』

『用を済ませた後、「こんな身体になっても、なんでお迎えが来ないのだろうね。」と言うから、「《幼くして亡くなった孫娘の》亜希子がまだ迎えに来たくないのだろうよ。もう少し孫たちに面倒見させてやりなさい。《連休中だったから、二人の孫が看護に在宅していた。長男は妻とともに帰ってきていた。》」と答えると、かすかに泣いていた。「もう死にたい、死なせて欲しい。」とも言うから、「勝手に死なせるわけにもゆかない。」と答える。この辺りは虚実とり混ぜてブラックジョークの世界でもある。』
《このあと母との会話らしい会話はなく、4日後の05.08夕刻に母は旅立った。》

父が亡くなる二日前 2010.11.30の介護日誌にはこのように記されている。
『母亡き後は、百歳を目標にして生きてきた親爺だが、ひょっとするとこの冬が越せないかもしれない。 せめて母と同じように、自宅で安らかな最後を迎えさせてやりたい。

昨夜、《耳が遠い父と》あれこれと筆談をした時に、「病院は嫌だ。家に居たい。」、「家で死にたい。」と言った。 言葉がはっきりしないから、正しくそう言ったのかは判らない。「もう死にたい。」と言ったようにも聞こえたが、「まだまだ、一人で大丈夫だ。頑張る。」とも言ったから、家で死にたいと言ったのが正しいのだろう。』

父も母も、彼らの希望どおりに長年住み慣れた我が家から旅立って行ったのだから、私自身に思い残すことは無いとも云えるのだが、自らの余生とか死と云うものを思うことが多くなった昨今では、二人は自らの死をどのように考えていたのか、どのように受けとめていたのか、本当のところを知りたい、聞いておきたかったと思うのである。

「もう死にたい」と言った母は、食べられず飲めない最後の二週間に疲れ果てていたのだろうと思い出す。傍らで看ていても、痛々しくてまともに見ることができなかった。そんな母に何を聞けると云うのであろうか、何も聞くことなどできはしない。

それでも親が死に臨んで息子に伝えることとして「死の意味とか死を迎える意味」というものがあるだろうし、聞いておけばと思うのである。もちろんのこと、正面切って尋ねることができようはずもないし、当時は尋ねようともしなかったことである。でも今になれば、聞いておきたかったと考えるのである。

それはたぶん、親の死生観を聞いて、自らの死生観を作り上げてゆく参考と云うよりも道しるべにしたいと思うようになったからでもあろう。いまさら、どのように考えても詮無きことではある。 そんな思いで、ほぼ一年間にわたって綴った「母の旅支度」と名付ける介護日誌を読み返しているのである。

介護日誌「母の旅支度」は、父母の介護しながら、母の病状、見守る父の様子、父母との会話などの日常を記したものである。同時に離れて暮らす息子たちに、祖父母の様子を報せる便りでもあった。母亡き後は「母亡きて後」、そして「父母亡き後、晴耕雨読の日々」と名を変えて、今も細々と続いている。

日中は25度を超える日が続いているけれど、鄙里の秋は深まってきた。木陰のツワブキが今年も多くの花を咲かせている。この花も父母が丹精していたものだ。IMG_1218

それにしても、この頃の「鄙からの発信」記事は、墓参、葬送、心残りなど、人の生き死にに関わる記事が多い。それもこれも我が終活ということなのであろう。終活も疎かにしてはいけないが、まだ生きているということも大切にしないと。 先日の渋柿の渋抜きだが、先ほど試食してみたら、きれいに渋が抜けて旨い柿になっていた。甘柿が不作なら渋抜き柿があるさというささやかな楽しみを味わっている。

 

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