父の書棚

父が亡くなって、もうすぐに五年になる。納屋に移してある父の書棚を改めて渉猟していて、何冊かを読んでみようと思った。今や父を偲ぶものは、納屋に移した父の蔵書のみである。父の蔵書のうち文庫本などは処分したが、残してあるハードカバーの多くは和歌俳句に関わるものと仏教関係のものが大半である。それでも一般書籍も少なからず遺されている。

それらのうちの一冊に「三浦朱門著:親は子のために死ぬべし」をみつけた。1991年の刊行であるから、父は77歳前後にこの本を求めたものと思われる。その頃の父の年齢に近くなってきた茫猿は、当時の父の心象風景を辿るためにこの本を読んでみたいと思った。

実は、この本は一年半も前に一度読んでいる形跡が有る。しかしながら、何も憶えていないのである。少し読み始めて、そういえば一度読んだような気がするとは思うのだが、確かに読んだと云うほどには記憶していないのである。十七ヶ月前の読書記憶が抜け落ちていることに驚いている。思い出せば、晩年の父は数冊の同じ本を繰り返し読んでいたようである。たぶん、読み終わった頃には記憶から抜け落ちて、再々度読むたびに新鮮に感じていたのであろうか。

別にこの本に限ったことではない。 かつて買い集めた藤沢周平、池波正太郎そして乃南アサの著書を、この頃は読み返しているのだが、「あアー これは読んだ。」という感覚がとても乏しいのである。部分的には確かに読んだと云う記憶がよみがえってくることもあるが、多くは違和感無く読み進めている。かつては仕事の合間に斜めに読んだからなのであろうか、それともエンターテイメントの必然なのであろうか、いずれにしても読むたびに新しなのだからまあ良しとするか。

前記の他に、父の書棚から抜き出してきた本数冊は以下のとおりである。購入時期とあるのは、奥付けに記してある発行年月または第※刷発行年月である。それらの日付以後に父はその書を購入したと思われることから、購入時の父の年齢が推し量れる。《父は2010年12月に97歳で亡くなったが、亡くなる一年ほど前までは、月に一度の大垣市民病院検診帰りに、岐阜駅の三省堂か名古屋の丸善に足を伸ばすのを恒例にしていたようである。》

碇星《いかりぼし》・吉村昭・中央公論新社・購入時期1999/02以降
《追記》本の帯に記される惹句は「暮れゆく人生に浮かぶ、ひとすじの光芒。人は佇み、見つめ、そしてふたたび歩みつづける。」とある。全八編の短編小説は、いずれも読後感がほのぼのする好編である。

同じく帯にはこうも記されている。「いわゆる短編小説は竹の節に似ていて、それがなければ私の長編小説は、もろくも折れてしまうだろう。この短編集には、その折々に竹の節にと願って書いた八編の短編をおさめた。一篇だけでも、読む人の心の琴線にふれるものがあるとすれば、それだけで満足である。」

なかでも「牛乳瓶」は、日支事変から太平洋戦争そして本土空襲に至る戦時下の日本、銃後の日本の市井の暮らしを淡々と綴っている。淡々と綴っているだけに、背後に潜む庶民の哀感がじんわりと伝わってくる。”戦艦武蔵”など戦記物を得手とした吉村昭ならではの語り口である。

仏教が好き・河合隼雄×中沢新一・朝日新聞社・購入時期2003/10以降
西行から最澄へ・栗田勇・岩波書店・購入時期1999/03以降
道元断章・中野孝次・岩波書店・購入時期2000/07以降

《”親は子のために死ぬべし” について、以前に読んだであろうという記録:亡き人と語れば  投稿日:   》

《追記》「三浦朱門著:親は子のために死ぬべし」について再読してみて、読んだ記憶が乏しいことのわけが判った。一読して違和感を感じるのである。この本を発刊した1991年に三浦氏は65歳である。発刊時に65歳だから書いた時はもう少し若い時であろう。彼の死生観とか老人観というものは、65歳の彼のものである。 今、72歳になった茫猿にしてみれば、「三浦朱門は勝手なことをホザイている。」としか思えないのである。

1990年当時とはいえ、今と然程に実年齢と老化現象が食い違っているわけではない。なによりも1990年代初頭は昭和が終わり平成を迎えた頃であり、今にして振り返ればバブル時代の終末期だった。当時の65歳から見た死生観であり老人観であったと思えるのである。

七十を超えた今の茫猿が思うことは、七十のことは七十に至らなければ判らない。本当のことはその年齢に達しなければ判らないと云うことである。だから、今の私には八十を迎えた人の気持ちも九十を迎えた人の気持ちも本当のところは判らないと云うことが、実感として腑に落ちてくるのである。まして、バブル期以後の二十数年を経た今ならではの思いも加わるのである。

六十五歳の三浦朱門が「親は子のために死ぬべし」と言ってみても、畢竟それは65歳の戯言にしか過ぎないのである。 「親は子より先に死ぬるものなのであり、子は親より先に死ぬるものではない。」という自然の摂理であれば理解できるけれど、65歳の子が「親は子のために死ぬべし」などと言うのは、やはり戯言にしか聞こえない。

部分的には理解できる箇所も有るけれど、全体としては違和感を感じるのである。今九十歳に近くなった三浦氏が何を考えているのか、最近の著作を読んでみたい気もするけれど、読まない方がよかろうとも思うのである。それよりも当時七十七歳前後であったか、八十を幾つか過ぎていたのか、そんな父がどんな思いでこの書を読んだのかと気に懸かるのである。

さて五年前に両親を亡くした私は「親は子のために死ぬべし」などとは考えないけれど、「子の重荷になるような死に方《すなわち生き方でもある》はしたくない」と願っている今この頃である。加えて、両親が健在なうちは自らの老境のことなどついぞ考えもしなかった茫猿である。たまに「鄙からの発信」で記事にしても、まだまだ先のことであり戯れ言や揶揄に近い記事になっていたと振り返る。 来年再来年と老いが今よりもさらに身近なものになっているだろう茫猿自身が、どのような死生観や老人観を抱いているだろうかと気になるところである。

鄙里では、花盛りになってきた山茶花。巡り来る季節毎に変わらぬ花を咲かせてくれる山茶花や鄙桜を見る思いにしても、年毎に変わりつつあることをそれとなく実感させられる秋深しである。20151113sazanka

刈込みの時期を間違えたか、刈り込み方を間違えたのか、花付きが今ひとつよくない木瓜(ボケ)の花。20151113boke

久しぶりに駄句ひとつ
散り葉照る  木洩れ陽嬉し  小春かな  《茫猿》

昨年の春、椿の花びらを散り敷いた庭先を見ていてこんな句が浮かびました。
桜の季節が過ぎてゆけば、季節は陽春、そして初夏の趣をみせます。 木々は若葉を茂らせ、様々な花木が花を咲かせます。 陋屋は浅緑と赤や黄色に彩られ、今年もまた母の日を迎えます。  母が孫(我が亡き長女)と、散り敷いた花びらで遊んでいる気がする庭先です。
《 あこ(吾娘)と母  座る影見る  花むしろ 》 (茫猿)

今年の秋、南京黄櫨《はぜ》の深き浅き黄色に染まる落ち葉散り敷かれた庭先を見れば、花むしろの艶やかさとはひと味違う渋さまさる”黄葉むしろ”です。透き間の多くなった梢をとおして射し込む穏やかな日射しが、とても和やかなやすらぎを届けてくれます。左の黄色い実は花柚子、右の赤い実は万両。20151114kareha

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