2015年暮れる

エルニーニョ現象に起因すると云われる暖冬の年末である。雪の無いスキー場、一ヶ月も早く咲き始めた蠟梅、寒波とはいっても例年並みの寒い日と、時ならぬ暖かい日が交互にやってくるから、寒暖の変わり目に雨が多い十二月も残すところ五日である。

戦後七十年という節目の今年も様々なことが起き、めまぐるしい移ろいを感じさせるとともに、変わり様も無いことも少なくなかった一年だった。消えては浮かぶ泡沫《うたかた》の如き表層と、止まっているように見えながら秘そやかに流れている深層も感じさせる一年だった。

鄙の住人が一年365日を振り返ってみても、大仰なことは何も無い。身辺雑記に他ならないし、細い葦の管から世界を覗き見るに等しいことである。だから、茫猿の感慨を記す前にWEBに発信され、鄙心に留まった幾つかの記事を並べてみる。

内田樹の研究室」 2015.12.06 「あるインタビューから
日本社会は農村共同体的社会から市場の評価が全てと云う市場成果主義社会へ変じた。自分の生き方が正しかったかどうかを決めるのは、試験の成績であり、入学した学校の偏差値であり、就職した会社のグレードや年収であるという「成果主義」「結果主義」に人々は慣れ切っている。

安倍晋三も橋下徹も「文句があったら選挙で落とせばいい」という言葉をよく使う。これは彼らが選挙を市場と同じものだと考えていることをはしなくも露呈している。選挙とは市場における競合他社とのシェア争いと同じものである、それに勝てば政策は正しかったことになると云うのである。

SEALDsの活動の際立った特性はそれが現代日本の政治状況における例外的な「保守」の運動だということである。彼らの主張は「憲法を護れ」「戦争反対」「議会制民主主義を守れ」ということです。国民主権、立憲デモクラシー、三権分立の「現状」を護ることを若者たちが叫んでいる。

逆説的ですが、今の市民運動に求められるのは「急激には変化しないこと」です。国のかたちの根本部分は浮き足立って変えてはならない。そのための惰性的な力として市民運動は存在します。それは市民運動のベースが生身の身体であり、生身の身体は急激な変化を望まないからです。
痛み、傷つき、飢え、渇き、病む、脆い生身の身体をベースにしている運動は独特の時間を刻んで進みます。その「人間的な時間」の上に展開される市民運動がいま一番必要とされているものだと私は思います。

白川勝彦:永田町徒然草」 2015.12.11 「”狂”の時代の粋な生き方
いま地球上で起こっている異常な気象現象等や国際的な社会現象等を一言でいえば、“狂”と表現して良いのだろう。世界全体が“狂”なのであるから、わが国でいろいろと“おかしなこと”起こっても、少しも不思議ではないのであろう。いや、“おかしなこと”で済んでいるのなら、良しとしなければならないのかも知れない。私の政治的感性では、いまの安倍首相がやっていることは、“狂”である。だが、これを許しているのも、わが国全体が“狂”であるためなのだろうか。

世界全体が“狂”だとしても、なにも自分まで“狂”になる必要はない。世の中全体が“狂”である中で、大勢に逆らって敢えて“冷静”でいることは、乙なものである。それこそ、正に“良識人・知性人”の、粋な生き方である。ここは、痩せ我慢でも、“良識人・知性人”として生きようではないか。この永田町徒然草は、痩せ我慢でも良いから、“良識人・知性人”として生きようとしている私の、心の叫びである。

荻上チキ責任編集:SYNODOS」 2015.12.25  「パリ同時テロをめぐる誤解―テロ、移民、極右の連鎖を打ち切るために:吉田徹
悲しいことに2015年は、1月のパリのテロに始まり11月のパリのテロで終わろうとしている。もっとも、その間には紛争地以外だけでも、アメリカ、タイ、チュニジア、レバノン、デンマーク、イギリス、中国、インド等々で、イスラム過激主義が関連したとみられる数々のテロが起きている。また今年は、フランスやイギリスだけでも、10件前後のテロ事件が未然に防止されているとされている。ただ、テロをいくら防いでも1件でも成功すればその目的は達せられるのだから、その成否がもつ意義においてテロ行為は非対称性を特徴としている。

仮説を交えていえば、サービス産業化が進む中で(フランスは先進国の中でもサービス産業のシェアが75%と高い)、対人サービスや知識産業が比重を占めていき、その社会のレイトカマーは文化資本で劣るため、ライフチャンスに恵まれない蓋然性が高くなる。しかも個人化が進む社会においては、メインカルチャーの動揺(伝統的な工業社会は労働を通じたメインカルチャーを創生していた)は、そのまま個人の次元でのアイデンティティの危機を伴う。そこに宗教的な言説をまとった過激主義や暴力主義が介在する余地が出てくる。

作家アルベール・カミュはノーベル文学賞を受賞した際のスピーチで、「事物を間違って名付けることは世界の不幸を増やすことだが、事物を名付けないことは私たちの人間性を否定することになる」という有名な言葉を残した。

冒頭に指摘したのは、テロという、いかなる本質や属性に還元できず、また還元すべきでもない暴力行為は、それがどのように「見られるか」を本質にしているということだった。そうであれば、テロをどのように解釈するのか、カミュに倣えばそれを「正しく名付けること」ことこそが、テロとの戦いに必要とされるのではないだろうか。

元法律新聞編集長の弁護士観察日記」 2015.12.25 「弁護士営業時代の懸念
弁護士の口から自らの仕事に関して、「営業」という言葉が出ることもそれほど珍しいことではなくなりました。もっともその中身はさまざまで、肯定的な弁護士のなかにも、その姿勢には積極、消極の濃淡があります。しかし、「改革」の増員政策が弁護士に意識させることになった競争、一サービス業としての「自覚」、さらにいってしまえば、「背に腹はかえられない」といえるような生存への切迫感のなかで、やや大仰に言えば、この言葉は、この資格業全体に突き付けられた観があります。

これまでは「営業」を意識する弁護士のなかにも、よく「プッシュ」ではなく、「プール」に徹すべきという捉え方する人がいました。積極的な勧誘ではなく、いろいろな情報提供の種をまくことで利用者に認知してもらい、いざ困った時に声がかかる状態をつくる営業が弁護士という仕事の性格に合っているというものです。

しかし、あくまで営利を目的とした競争がそこで収まれば、の話です。現に、いわゆる士業向けの経営コンサルタントのなかには、前記した規定を知ったうえでか、知らないでか、堂々と弁護士に「飛び込み営業」を進める業者もいます。また、弁護士のなかにも、競争状態のなかでは当たり前のセールスは認められるべきであるとか、積極的な提案の営業として認められるのではないかとする意見も聞かれます。弁護士「営業」時代に都合のいい解釈が、今後、堂々と登場してきてもおかしくはありません。

荻上チキ責任編集:SYNODOS」 2015.10.22 「メディアが国益を意識し始めたらおしまいである 池上彰×森達也
メディアは国益を意識し始めたらおしまいなのです。事実を伝えることがメディアの役割です。「国益に反する」というのは、そのときの政府が何かやろうとしていることが、うまくいかなくなることです。事実を伝えるということは、長い目で見れば、結果的に国益に資するということを肝に銘じなければいけません。噓を言ったり、知り得たことを隠したりしてはいけないということです。それがジャーナリズムのあり方です。「国益に反する」という言葉を安易に使うことは危険なことだと、私は思います。

以上、2015年暮れに印象に残ったWEB記事5編の抜粋を長々と並べた。抜粋であるから正確にはリンクしてある元記事の全文をお読みいただくしか無いけれど、昨今の情報の洪水のなかでは、本記事をここまで読むことでさえ至難の業であろう。ましてやリンクされる元記事までさかのぼって読むことなど期待するのさえ愚かなことであろう。この忙しい年末にそんな暇人は鄙の翁である茫猿くらいのものであろう。

この頃は、残日録を標榜する「鄙からの発信」であれば、読者が元記事にまで分け入って読み込んでくれることなど期待するのも愚かである。全ては記憶力が衰えた茫猿自身の備忘録に過ぎない。

さて取り上げた五編の記事には共通する流れが見えるのである。
最初に取り上げた「内田樹の研究室」 2015.12.06 「あるインタビューから」で内田樹氏は、安倍総理への根強い支持は何処から生まれているのか、その背景になにが存在するのかを論じている。効率を重視し市場の評価に全てを委ねようとする効率重視・利益重視社会は、選挙結果さえも市場の評価と同一視するのである。選挙結果が全てであり選挙に勝てば全権を委任されたと嘯き、反対なら次の選挙で落とせばよいと居直る昨今の政治を喝破している。

効率や費用対効果だけが全てではなく、サステイナブル《持続可能》な生き方であり、ダイバーシテイ《多様性を認める》的な生き方であり、スローライフを目指す生き方であろうと考える。

白川勝彦:永田町徒然草」 2015.12.11 「”狂”の時代の粋な生き方」で白川勝彦氏は昨年の集団的自衛権について合憲解釈閣議決定から、今年の安保法案採決に到る政治を「狂」というのである。世間が狂奔する時であればこそ、狂騒に惑わされることなく、立ち止まって静かに考えようと示唆するのである。

白川氏が云う良識人とか知性人としての生き方は、その何がしかにおいて「茫猿遠吠」に通じるものであり「疾しき沈黙」を良しとしない生き方なのである。

荻上チキ責任編集:SYNODOS」 2015.12.25  「パリ同時テロをめぐる誤解」で吉田徹氏は、テロリズムと云うものの本質は社会に恐怖を与えることを目的とするものであり、テロリストの表層だけを見て深層を見ようとしなければ誤りかねないし、テロリストの思うつぼに嵌まることになると説くのである。中東やアフリカを根源とするテロと欧州や米国の関わりとその実相を見抜くことが大切であると説くのである。

テロリズムを理解しようと云うのではない。テロを生むに至った背景を、テロリストを生み出すに至った社会の側から見つめ直すことに思いを致そうと云うのである。

元法律新聞編集長の弁護士観察日記」 2015.12.25 「弁護士営業時代の懸念」は少し流れが違っている。不動産鑑定士という資格業を生業として半世紀を生きてきた茫猿からすれば、資格業種というものが社会と対峙する在り様を今一度見つめ直そうと云う筆者の主張に共感するのである。

筆者は弁護士を取り上げて論じているが、茫猿にしてみれば不動産鑑定士とは元々如何なる役割が求められる資格業種であったのか、社会にあって如何なる存在であらねばならないのかと問いかけているごとく聞こえるのである。

荻上チキ責任編集:SYNODOS」 2015.10.22 「メディアが国益を意識し始めたらおしまいである 池上彰×森達也」において、池上氏と森氏はメデイアが論じる国益と時の政府が論じる国益とが同じであろうはずも無いことを述べている。時の為政者が国益を声高に言う時に、その国益とは「為政者にとって都合のよい国益即ち為政者益」であることがしばしばである。

そもそも国益とは何ぞやと問われなければならない。目先の利益なのか歴史の評価に耐えうる国民の利益なのか、一部の人を利するものなのか多数の国民に為するものなのか、立ち止まって静かに見つめ直さなければならないものであろう。

総じて、五編の引用記事は浮かんでは消える泡沫に惑わされること無く、深層底流に流れるものをしっかりと見定めようと説いていると考えるのである。勇ましい議論、華々しい問いかけ、じっくり考えようとさせない喧噪などに惑わされること無く、自らの足で立ち自らの言葉で考えようと説いていると受けとめるのである。

寒風のなかでもナデシコは庭の隅で花を咲かせている。20151226nadeshico

戦後七十年と云う節目の年は、1944年生まれの茫猿にしてみれば、一年遅れの節目の年でもある。 戦後七十年というものを自らの人生に重ねて振り返ってみる一年でもあった。 来る2016年に何か特別なことを願うものではない。今年に変わらぬ晴耕雨読の日々を続けられれば佳しと思うだけである。

 

関連の記事


カテゴリー: 只管打座の日々, 茫猿残日録 タグ: パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください