暦と時計

サイトの更新をすること無く二週間が過ぎた。昨日に変わらぬ今日が過ぎてゆく日々を暮らす老いの身であれば、更新に値する出来事が日々出来《しゅったい》するわけなどないから、更新が間遠になるのもやむを得ないことである。とはいえ、なにも思い浮かぶこと無く旬日あまりが過ぎたわけでもない。折々にメモった断片が、この間にも幾つも溜まっている。よどみに浮かぶ泡沫《うたかた》のごとく溜まっているのである。

『共観 愚観 諦観』
三が日過ぎたあたりだったか、ETVで良寛和尚を取り上げていた。そのなかで、良寛の死生観を評して「共感、愚痴、悟り」と表現していた。これは、文政十一年《1828年》・三条の大地震の際に、見舞を受けた良寛が出した礼状についての評釈である。

地震は信《まこと》に大変に候。野僧草庵は何事なく、
親類中、死人もなく、めでたく存じ候。《共感》

うちつけにしなばしなずてながらえて
かかるうきめを見るがわびしさ《愚痴》

しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。《悟り》

老いてゆく自分を見つめ、共感も愚痴も悟りも、為すがままに見つめる。 できれば明るく諧謔をまじえて見つめる。そうありたいと思った。愚痴だけでは老残の惨めさがつのり、人に嫌われるだけであろうから、先ずは共感を示すことから在りたい。避けられない愚痴は愚痴として、諧謔と飛躍をまじえた境地に一歩でも近づきたいものである。これを、「共観、愚観、そして諦観」と考えるのである。

諦観の「諦」はアキラメと解するのが多いけれど、「諦:たい」と読む時は、真実あるいは真実を見極めることと解される。2013年に亡くなった母方の叔父がいただいた法名が「釈諦秀:しゃくたいしゅう」と云うのである。この法名についての案内をいただいた時に、「諦」は「たい」と読み、アキラメではなく、真実を見極めること、ひいては悟りに至ることと説明された。

この折りのことを思い出して、『共観 愚観 諦観』こそが老残の身に相応しかろうと考えたのである。優しく共観し、愚観することも避けずに、しかしながら明るく、でき得れば諦観に近づければ尚佳けれと思うのである。

『残日転じて残照』
「鄙からの発信」を「鄙からの発信・残日録」と名を変えたのは2013年暮れのことである。今や残日も西山に沈み、残照のみばかりと思わないでもない。再び名前を変えようかと考えたけれど、残日はともかくとして残照は烏滸がましい。残る照り映えなどあり得ようもないと思うので、サイト改名は思い止まる。

『暦と時計』
末期の病床にあった母が、壁にかけてあった月めくりカレンダーをはずすように言い、次いで掛け時計もはずすように言ったことがある。私が聞いたわけではなく、五月の連休を祖母の看病に駆けつけてくれていた長男が祖母から聞き、暦と時計を病室から取り去ったのである。

《この頃、”母の旅支度”と名付けた介護日記を記している。この日記の4月30日には、次のように記されている。》
何が起きても一喜一憂はしないこととしている。ただただ一日が終わり翌朝を恬淡と迎えようとしている。 今日の午前中、買い物で留守にしているあいだに、母は孫に今日は何日かと尋ねたそうである。四月三十日と答えると、なにやら意外そうに十八日は過ぎたのかと言ったそうな。そして壁に掛けてある暦をはずすように言ったそうな。 四月十八日は初孫亜希子の三十七回忌・祥月命日である。亜希子が祖母を迎えに来たのであろうかと思うと、目の前がぼやけた。

《長男は亜希子の死後に誕生しているから、四月十八日は彼の念に無く、不思議に思い何の日かと私に尋ねたのである。》

腰が屈んでしまった祖母の手を引く三歳の娘の姿が、思わずしらず目頭に浮かんだ。私を振り返り微笑みを見せる娘の笑顔が、なにやらとても懐かしい。 気づけば有り得ないこと、娘が生きていればもうすぐ四十なのに、浮かんできたのは三歳と九十歳が連れ添う姿である。 死者の来世は我が心のうちに在るのだと、つくづく思う。 《引用終わり》

掌中の珠のごとく慈しんだ孫の祥月命日には、毎年のごとく仏壇の花を新しくしお参りを欠かさなかったであろう母が、うかとその日をやり過ごし、気づいたら十二日も過ぎていたことを、どの様に受けとめたのであろうかと、今になって振り返るのである。

当時は一日一日を迎え送るのに忙しくて、深く考えることもなかったと思い出す。母が居なくなって五年半が過ぎた今だからこそ、当時は受け流していた様々なことを思い起こしている。 部屋から暦と時計をはずさせた末期《まつご》の母は、死期を悟っていたのだろうか、きっと悟っていたに違いなかろう。暦も時計ももはや無用のものと思っていたのであろうと考えている。《この日から九日後に母は旅立って逝った。》

『紅梅と白梅』
暮れから年始にかけて我が鄙里に滞在していた孫と長男夫婦が帰京して、二三日は何することも無く日暮らした。賑やかな声や物音が消えて、森閑とした鄙里に老夫婦の日常を取り戻すのに、幾ばくかの時間を要したのである。 松が明ける頃から、柿と梅の剪定を始め、切りとった枝や雑木林で伐採した枯れ木などの野焼きをするのである。今日、この冬のすべての作業を終えた。明日からは春物野菜の植え付け準備に取りかかるのである。

鄙里では山茶花が花の盛りを終え、蠟梅も散り始めている。畑では紅梅が散り始めたけれど白梅は蕾膨らめどまだ咲かない。鄙里に梅の香りが漂うのはもう少し先のことである。

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『寒中見舞い』
もう十年以上も音信の絶えていた故中村と共通の知人から、寒中見舞いが届いた。印刷された定型挨拶文に「淋しくなりました」との一言が添えられていた。会者定離は此の世の理であるが、一期一会の大切さが改めて思わされる。

教えられるのである。気にかけているだけでは何も伝わらない。はがき一枚、電話一通の一手間が思いを伝えてゆくのである。それも小さな一期一会なのだと教えられるのである。知人には礼状をしたため、中村の妻君には寒中見舞いを送った。

 

 

 

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