事の源は何処に

年始以来、久方ぶりにまとまった雨が降る今朝である。首都圏では交通障害が懸念される降雪であり、北日本などではこの冬最大の降雪量が報道されている。我が鄙里では、木々にとって恵みの雨であり、些か気が早い表現だが木の芽起こしの雨でもある。先々号記事を読まれた今や奇特ともいえる読者のなかには、違和感を感じられた方も少なくなかろうと思い、フォロー記事を書いている。

被害者と云える”CoCo壱番”に厳しい見方と感じられた読者もいることだろう。不幸にして慮外の死に襲われたスキーバスツアー客に示す弔意が低いのではと感じられた方も少なくなかろうと考えている。

しかし、先々号記事で伝えたかったことは、事件事故の背後に垣間見える本質的な問題なのである。廃棄物処理における「インボイスとトレーサビリテイ」の機能は十全か否かなのであり、バス・タクシー・トラックなどの交通機関における規制緩和措置は十全か否かなのである。

廃棄物処理に関しては「排出者責任の原則とか汚染者負担の原則」などが援用されるべきと考える。少なくとも自社の廃棄物について最終処理まで目配りするということ、すなわち「インボイスとトレーサビリテイ」を貫徹すると云うことである。同時にそのことが思わぬ”風評被害”を防ぐことにもつながると考える。旅行業者についてはバス事業者への発注者責任を問い糺すことも然るべきである。「業者を信頼してました」などという逃げ口上を発することの無いようにしたいものであり、それこそが上場企業の社会的責任と考えるのである。

規制緩和は競争を促進させ最終的に消費者の利益を図ると云うのが謳い文句である。廃棄物処理のアウトソーシングも効率化を図ることにより企業利益ひいては消費者の利益を見込むものであろう。労働契約の規制緩和《派遣労働に代表される雇用契約条件の緩和》も労働者でもある消費者の多様なニーズに応えると云うのが謳い文句である。

『規制緩和に潜む陥穽』
規制緩和措置は消費者の利益を生み出しているのだろうか。短期的には《ほとんど刹那的には》、商品購入価格が安くなり、ツアー料金が安くなり、労働条件が多様になったかもしれない。でも長期的には《長期と云っても十年も待たない数年後に》安いけれど危険な食品を買わされる機会が増えたし、不慮の事故に遭遇したり遭遇した場合に十分な補償を受ける機会が減ったり、劣悪な労働条件に縛られる短期雇用が増えキャリアアップの機会が閉ざされ貧困層に転落する機会が増えているのである。

先々号記事では、「此の世の理《ことわり》」という言葉を使った。有り体に言えば「安物買いの銭失い」であり「一文惜しみの百知らず」なのである。規制緩和論者の多くは「経済グローバル化への対応」を口にするが、その実は、経済のアメリカシステム《ウオール街システム》一体化であり、金融資本主義化なのである。世界の富の90%を1%の富裕層が保有する世界へまっしぐらなのである。

筆者は単純に規制緩和に反対する者ではない。規制緩和の是非を云えば是である。多様性を否定するものではない、多様性の創造は是である。根強くかつ多く残る既得権益者を擁護するものでもない。 しかしながら、変えなければならない事がらの多くには、決して変えてはならない事がらが少なからず含まれていると考えるのである。

廃棄物処理は環境を破壊してはならず、食品衛生をゆるがせにしてはならず、交通機関規制緩和は運転従事者の待遇と乗客の安全をゆるがせにしてはならず、雇用形態の自由化は同一労働同一賃金の原則をゆるがせにしてはならないのである。賢い消費者は「その変えてはならない事がら」を墨守する為には、割高な商品価格も甘受しなければならないと考えるのである。 消費者には見えない背後にいる涯無き緩和論者、競争至上主義者、ネオリベラリストたちを”ほくそ笑ませ”てはならないのである。

目先の自由化や多様化や価格低下に目を奪われていれば、いずれ、そんなに遠くなく到来する少数の富裕層と大多数の貧困層という二極分化に直面するであろう。六人に一人が貧困児童という事態は、既に直面しているといえるであろう。

だから犠牲者を悼むことは言うまでもないことであるが、背景に潜む本質を抉り出さずに等閑にしてはならないと考えるのである。感情論に棹さし押し流され「理《ことわり》」を置き去りにしてはならないと考えるのである。

『いつもの蛇足』
消費者と云う大衆、一般国民、庶民を守る統治システム改築が待たれるのである。大手銀行や大企業、規制緩和論者、競争至上主義者、ネオリベラリストたちに顔を向ける統治システムから、一般国民・庶民に顔を向ける統治システムに変えねばならないと考える。

財務省、経済産業省、国土交通省などを上位官庁とするような産業経済指向の統治システム《明治維新以来続く富国強兵統治システム》を解体再構築して、環境省や消費者庁、社会保障庁、労働者庁を上位とする統治機構に変えなければならないと考える。 でもそれは夢幻《ユメマボロシ》に終わるだろう。現統治システムに君臨する世襲政治家も上級公務員も、戦後七十年を経て既に既得権層化が著しいからである。

最も顕著な実例は、既に三世代目を迎えている世襲政治家や上級公務員の子弟は、公立小中学校には向かわず、小中高あるいは中高一貫教育私立校に向かっているのである。大都市圏に認められる子弟の教育機会の劃然分別化は、階層の再生産と差別の拡大固定化を必然たらしめているのである。 さて、諸兄姉はどうする。自らの子弟こそは小中高一貫教育私立校に向かわせるか、それとも・・。

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