弥生三月も半ば

弥生三月も半ば近くになり、桜待つ頃である。今朝は気温12度、こぬか雨ふる朝である。三月に入ってからの畑仕事は、秋冬野菜を穫りいれた跡地を耕し、春夏野菜を植え付け、種を播いてきた。ジャガ芋の種を植え付け、法蓮草、人参、牛蒡、夏大根の種を播いた。キヌサヤ、十六ささげの種を播いたり、トマト、茄子、胡瓜、甘瓜などの苗物を植え付ける時期も近い。サツマイモの苗や里芋の種芋の植え付けもまぢかである。

ひと雨毎に野良の緑が目立つようになり桜の蕾も膨らんできた。落葉樹の裸枝のなかでサンシュユの黄色が鮮やかである。満開の八重椿の下は花むしろの彩りが目立つようになってきた。20160309sansyuyu20160309tubaki20160309mushiro

裸枝に雨露を留らせている鄙桜を窓越しに眺めていて浮かぶことがある。桜を待ちわびるように、いつの頃からなったのだろうかと「鄙からの発信」アーカイブを検索してみた。
鄙桜の記事が急に増えたのは2010年の春のことである。岐阜市の事務所を閉めて父母の介護に専念しながら、自分の居室の窓から見える鄙桜が日々姿を変えてゆく様子を追いかけて以来のことである。

つぼみ膨らみ、咲き初め、満開の桜を車椅子の母と共に眺め、紅色を増しながら散りゆく桜を送り、葉桜の緑濃くなる頃に母が逝っていらいのことである。それまでは、事務所近くの美江寺公園の桜や通勤途中に見かける桜を記事にすることが多かった。朝早くに家を出て夜遅くに帰宅し、休日も外出することの多い暮らしでは、家の鄙桜に目をやるゆとりも無かったのである。

母の病状を気遣い、父の介護をしながらの折々に桜の移ろいを眺めるのが、いっときのやすらぎとなっていたのだと思い出すのである。あれ以来、桜の季節が近づけば桜とともに父母のことを偲び思い出す。「母の旅支度」と名付けた当時の日記を読み返せば、毎日が新しい発見であり驚きばかりだった。鄙桜の移ろいと同じくして母の容態も転じていったのである。

今にして心残りなのは、母とは桜を眺め桜を語ったけれど、父とともに眺めることも話題にすることも無かった。父は翌春の桜を見ること無く、その年の暮れに母を追うように亡くなってしまったから、父にとってもこの年の春の桜が最後の桜となってしまったのである。

雨に濡れる野良先をよく眺めれば可憐な花を咲かせているホトケノザが目立つし、誰に摘まれることもなく土筆が林立している弥生三月半ばの頃である。20160309hotokenoza20160309tukushi

先週に行われた益雄叔父の三回忌で献杯の発声を頼まれて、こんなことを述べた。

父母を亡くして以来、多くの方を見送ってきました。父母であり、叔父叔母であり、従兄弟であり、友人知人などなどです。仏事の案内が届かない月が珍しいほどのこの数年です。それでも未だに「死」と云うものの真実が何であるのか、よく判りません。居なくなり二度と会えないと云うことは理解していますが、亡くなった方が何処へ行くのか来世があるのか無いのか、ただただ土に還るだけなのか、何も判りません。

それでもたった一つ、判ってきたことがあります。 それは、今日のような法要の機会に、法要でなくとも何かの折りに、亡くなった方の笑顔や話し声を思い出す。時には叱られたことや不満に思ったことなども思い出す。そのような思い出につれて、亡き人に連なるこれも今は亡き人たちのことも思い出すことが、とても大切なのだと考えるのです。

齢を重ねると云うことは、思い出す人も否応無く増やしてゆきます。二度とまみえることのない人たちではありますが、私が折々に思い出しているかぎり、亡き方々は私のなかに生きているのだと判ってきました。《亡き人たちの来世は私たちのなかにあり、佳く思い出すこと多ければ幸せな来世なのだと思うのです。》

 

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