忘れぬ日付

忘れ得ぬということではなく、忘れてはならぬ日付と云うものがある。忘れぬ日と云うものは、人生観によって視点によって様々であろうと思われるが、今の私にとって忘れぬ日は次の五つの日付である。かつては 8.15 も数えていたけれど、2011年以降はこの五つの日付を忘れぬ日付と考えている。いずれも被災を体験したわけではないが、現地に足を運び私なりの追体験をしたことで今に連なる日付である。


1945.06.23 沖縄慰霊の日
沖縄には何度も訪れた。いつも島唄酒場へ行くことが楽しみではあったけれど、米軍嘉手納基地の展望台のある「道の駅かでな」や知花弾薬庫、そしてひめゆりの塔などを訪ねて沖縄戦の惨状を追体験した。東シナ海と基地のあいだを南北に通じる国道58号線に立ち、頭上をかすめて通過するB52をしばらく眺めたこともある。

太平洋戦争における沖縄戦と云うものがどのように位置づけられていたのかを考える日でもある。普天間基地の辺野古移転問題が起きてからは、明治政府による1879年の琉球処分、そして沖縄を米軍施政下に置き去りにしたままで、講和条約を締結し主権を回復した日本という国のことを考えている。

1945.08.06 広島原爆忌
原爆ドームをはじめ平和記念資料館などを、高校の修学旅行で初めて訪れて以来、数度訪ねている。福島の原発事故が起きてからは、被爆国日本において原発を稼動させる意味を考えさせる日となっている。

1945.08.09 長崎原爆忌
平和祈念像、浦上天主堂、原爆資料館などを訪ねている。長崎だけは一度しか訪れたことがない。《長崎市電に乗る為にも、もう一度訪ねたいと考えているのだけれど・・・・》

1995.01.17 阪神淡路大震災の日
発災の年の三月半ば頃と記憶していますが、震災後間もない神戸で独り暮らしを始める長男の引越荷物を運んで、早朝の神戸の町へ入って以来何度も訪ねました。学生時代に何度も訪れた神戸の町が無惨に変わっているさまを眺めて以来、行く度に復興してゆくさまと、それでも随処に残る傷跡を眺めたものです。東日本大震災が起きてからは、阪神間と云う都市圏域における震災と過疎化高齢化の進む東北沿岸地域における震災の違いを考える日となっている。

2011.03.11 東日本大震災の日
発災後一ヶ月余を経過した2011. 04.25 に岩手県釜石市、大槌町を訪ねました。その後も気仙沼市、いわき市、仙台市若林区などを訪ねました。 2008年秋に気仙沼で一泊したから、その時と被災後の変貌のすさまじさは今も記憶に残っている。

今の私にとっては、原発にどう向き合えばよいのかを考える日となっている。過疎地に原子力発電所を立地させ都市圏域に電力を送電供給する構造の背景、電力供給の経済性と云う短いスパンの経済効率性と放射能半減期まで何万年と云う長い期間を要する原発廃棄物処理問題、そして想定外としていた過酷事故処理や廃炉処理問題などを考える日となっています。過疎地に原発を立地させて資金投下する構造は、沖縄に米軍基地を集中立地させる構造と似ていると考えるのである。

この五つの日付はいずれも記念日ではない。
当事者にとっては当たり前のこと、縁薄き者にとっても慰霊の日であり祈念の日であると思う。 そして、今現在のおのれの生き方を振り返る日であると考えている。

《3.11を俯瞰的に見るのか仰視的に見るのか》
先に記した原発事故の問題などは俯瞰的な見方である。しかし原発避難区域に居住した総ての人たちには、それぞれの人生を余儀なく変更させられた様々な事象が存在している。福島県双葉郡浪江町赤宇木《あこうぎ》地区は浪江町の北西部に位置し、飯舘村にも近い地域である。震災後、毎日の新聞に最も放射線量が高い場所として掲載されるようになった。現在は「帰還困難区域」に指定され、土地が元に戻るのは100年以上先とも言われている。《2016.3.13 BSプレミアム赤宇木》

赤宇木に住んでいた人たちのなかには、戦前に満蒙開拓団として満州に送られたが敗戦により命からがら帰国した人たちがいる。福島県に帰郷して赤宇木に開拓民として入植したものの、稲作をすれば米価が下落し酪農をすれば乳価が下落し、原発立地に協力した挙げ句が汚染事故で避難せざるを得なかった。何度も何度も国策に協力した挙げ句、その都度、国に裏切られてきた人生を経てきた人が少なくない。それでも今を笑みを浮かべて語る人たちを視聴させていただけば、せつなくて遣り切れない。大きな過酷事故であれば、俯瞰的に眺めることが多い。けれど、仰視的に観れば一つとして同じでなく、一つ一つがかけがえのない人生の一つ一つがとても重い人生が見えてくる。

《私だけの忘れぬ日》
娘の命日《1974.04.18》、弟の命日《2007.08.01》、母の命日《2010.05.08》、父の命日《2010.12.02》、生涯の友となってしまった中村の命日《2015.06.28》、私だけの忘れぬ日は増えてゆくばかりである。暦に記しておかねば、うっかりと過ごしてしまいそうになってきた。

 

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