巨大システムの持つ陥穽

昨夜《2016.03.13》放送のNHKスペシャル・原発メルトダウン・危機の88時間を視聴していて考えた。 巨大システムには常に安全確保が求められるが、巨大システムなるが故に人間が対応しきれないと云うパラドックスが存在するのではなかろうか。そのもっとも顕著な例が、3.11原発事故における「事故対応そのものですら想定外という混乱」であったと云えるのでなかろうか。

NHKサイトより引用
世界最悪レベルとなった原発事故から5年。東京電力福島第一原子力発電所では、事故の後処理、廃炉の作業が日夜続けられているが、今なお溶け落ちた核燃料の状態を直接見ることさえできず、事故の全貌は明らかになっていない。あの日、現場で何が起きていたのか? なぜ、放射能を封じ込めることができず、大量放出に至ったのか?
非常用の冷却装置を使えず、一気にメルトダウン・水素爆発した1号機。原子炉冷却の“切り札”とされた消防車による注水に死角があり、メルトダウンを食い止められなかった3号機。 そして、故・吉田所長が死をも覚悟したという2号機の危機…。

東京電力広報より引用
地震発生時、2号機は直ちに制御棒が挿入され、設計通り自動で原子炉が停止しました。2号機は地震により外部電源をすべて失い、復水器などは使用できない状況でしたが、非常用ディーゼル発電機が自動起動し、原子炉隔離時冷却系も運転することができました。その後、津波とこれに伴う浸水により、非常用ディーゼル発電機やバッテリー、電源盤等、全ての電源を失い、計器類の監視・計測機能や操作機能、照明等が使用不能となりました。

ここまでは、1号機とほぼ同じ経過を辿りましたが、2号機では原子炉隔離時冷却系が津波襲来前から動作しており、全電源を失った後もこれが動き続けたことから、約3日間注水を続けることができました。《この時点までは、緊急安全確保機能が稼動していた。》

この間、他の冷却系統での注水を行なうべく、水没を免れた電源盤に電源車をつなぎ、電源確保の作業を進めていましたが、12日午後3時36分の1号機の水素爆発によりケーブルが損傷し、電源車が使用不能となりました。また、14日の午前11時1分には3号機で水素爆発が発生し、準備が完了していた消防車及びホースが損傷し、使用不能となりました。同日午後1時25分に原子炉隔離時冷却系の停止が確認された後、減圧に時間がかかり、水位が低下、炉心損傷に至り、これと同時に水素が発生しました。《隣接する1号機及び3号機の水素爆発により、2号機の圧力容器破壊の危険が生じ、大量の放射能が飛散する危険が起きた。東日本広域の放射能汚染の危険が現実のものとなったのである。》

炉心損傷の後の圧力容器及び格納容器の損傷に伴い、水素が原子炉建屋に漏洩したと推定されますが、2号機では原子炉建屋上部側面のパネルが1号機の水素爆発の衝撃で開きました。このため、水素が外部へ排出され、原子炉建屋の爆発が回避されたと推定されます。《1号機水素爆発の影響による圧力容器破損と云う、偶然の結果により水素が排出されて爆発を免れた。

一方で、2号機からは1~3号機の中で最も多くの放射性物質が放出されたと推定しています。これは、1, 3号機では、圧力抑制プールの水によってある程度放射性物質を取り除いてから格納容器の外へ気体を放出する「ベント」という操作が成功したことに対し、2号機ではベントのラインを開放することができず、ベントに失敗、格納容器から直接放射性物質を含む気体が漏洩したためと推定しています。《引用終わり》

「鄙からの発信」はサイト開設後の間もない1999年10月に「巨大技術&巨大システム」と題する記事を掲載している。巨大システムが巨大なるが故に潜ませている陥穽を考えている。その記事を推敲を加えて再掲する。

技術の巨大化とその必然として派生するシステムの巨大化は思わぬ陥穽をもたらすものである。新幹線、大型旅客機、そして原子力発電所等々皆同じ陥穽を内在させていると云えよう。各々の巨大技術とシステムはセイフテイネットをもって安全性を担保している。しかし、安全ネットのほころびは、いつも思わぬ処から出現するのである。御巣鷹山の日航ジャンボの隔壁金属疲労も新幹線や高速道路トンネルのコンクリート破損も、その時点では考えもされなかった処から発生している。

巨大技術も巨大システムもコンピューター無しには成立し得ないし、維持できない。同時に逆の視点から云えばコンピューター頼りの技術やシステムの内在する脆さ或いは限界について、十分に理解しておく必要があるのではなかろうか。どのような高性能コンピューターでも電源無ければただの箱である。

「コンピューターの出力結果はこう出ていますから、間違いありません」というデジタル過剰信仰にあふれた話も時々聞くことがある。「入力ミスさえなければコンピューターは間違えません」という話はもっと多く聞く。いずれも当初のシステム設計は人間が行ったものであり、設計当初に万全を期したとしても、その後の状況変化には対応できていないし、状況変化に対応できる設計であったとしても、当初の設計の枠を超えた状況変化には対応できない。

別の観点からいえば、多くの事象と人間との間に常にコンピューターが介在する現代社会の持つ陥穽といったものにも注意する必要がある。こういったコンピューター及びコンピューター社会が内在させている限界というものを常に予期しておく必要があるのではなかろうか。

巨大技術やシステムは、巨大且つ精密なるが故に極々一部の破損や欠陥が重大な結果をもたらし易いということも承知しておかねばならない。最も怖いのは巨大技術やシステムに関わる安全神話である。過去に事故が無かったということは、確率的にはこれから起きうると捉えるべきであり、だからこそ神話なのだと考えるべきである。

さらに人間というものが持っていいる本質の一つに学習による慣れと怠慢がある。無事故や安全が継続すればするほど技術やシステムに対する依存性が高まり、それが慣れと怠慢に結びついてゆく。新幹線も大型旅客機も離発着を除けば、その運転は退屈なものだと聞く。ATSや自動操縦システムに任せておけば、運行中は人の介在はかえって邪魔になるものだとも聞くのである。

福島原発においては非常電源を喪失した場合でも、手動で開閉できて圧力容器の排気を行えるベント装置が存在していた。しかしながら、この手動開閉装置も非常時と云うよりも通常の管理を考慮してのことであろうことから、圧力容器の近くに設置されていた。だから放射能濃度が高くて手動開閉弁に近寄れなかったのである。非常時を想定して放射能濃度が高くならない場所に設置してあればと考えるのは”後の祭り”と云うものであろう。

しょっちゅうパンクしたりエンストしたるする中古車に乗っていた50年前を思い出すと、点火プラグの交換や掃除、エアフィルーターの点検、オイルチェック、タイヤ交換など日曜日は車のボンネットを開けて、素人なりに車と対話していた記憶がある。最近は車内のパネルからモニタリングができるし、第一、ボンネットを開けても何がなんだかさっぱり判らなくなっている。だから、車の小さな異常音にも気付かなくもなっている。ことの大小は大きく違うが、身の回りの技術の進歩は、身の回りの異常に対する本能的或いは初歩的な感性さえも鈍くしているような気がする。

巨大スステムの安全性確保と人間性尊重の立場からの提言」が1994年に日本学術会議から発せられている。発せられてはいるが顧みられること少なかったのであり、それこそが”安全神話”というものである。

催花雨に濡れながら、鄙桜の蕾がふくらみ彩りを増している。20160314tubomi

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