スマホとSNSあれこれ

近頃はSNS《Social Networking Service》について何かと考えさせられることが多い。FacebookやTwitterについて物珍しい時期が過ぎて普及が飽和状態になり、如何かなと考えさせられることが増えたせいでもある。「保育所落ちた。日本死ね。」という書き込みが国会で話題になり、「不倫タレントのLINE漏洩」事件が週刊誌を賑わせたかと思えば「スマホ世代のPC知らず」《日経電子版》などという記事も見かける。


世界最大のSNSに成長し開発者が映画にもなった「Facebook」や、短いつぶやきを投稿・共有するマイクロブログ型の「Twitter」、写真の投稿・共有を中心として近頃利用者を増やしている「Instagram」などがSNSのメジャーである。日本独自のサービスとしては「mixi」などがある。

近頃ではSNSとして始まったものではないWebサイトやネットサービス、スマートフォンアプリなどに「SNS的」な機能が組み込まれるサービスも増えており、料理レシピ投稿サイトのCookpadや、スマートフォン利用者間でチャットや音声通話などを提供するLINEなどにも、日記の投稿・共有機能といったSNSとしての機能が付属している。

原則実名で友達限定のFB、フォロワー限定のTwitter、対象不特定のBlogなどであるが、いずれにしても実名であれ匿名であれ、発信元の追跡が可能であることから、写真の貼付も含めてどのようなコメントをどのような表現で発信するのかは、基本的にメディアリテラシーの問題であろう。

実はこの原稿についてメモを溜め始めてから数ヶ月が過ぎた。気になる事象についてメモを増やしてゆくに連れて、広がりすぎて散漫になり集約できなくなってきた。SNSという社会現象がそれほどに多義多様に影響しているとも云えるのであろう。そこで集約できないまま思いつくままに溜めたメモをランダムに列挙しておく。茫猿備忘録なのである。

《FaceBookの”いいね”について》
以前から、何でもかんでも”いいね”をクリックする人たちに疑問を感じていた。たぶん、「見ましたよ」というアリバイ証明に”いいね”を使っているのだろう。 そんな利用者の不満を受けてのことであろうか、今年になってから、Face Bookの「いいね」ボタンに種類が増えた。左から、「従来からのいいね」、ハートマークは「超いいね」、以下右へ「うけるね」、「すごいね」、「悲しいね」、いちばん右は「ひどいね」である。だからどうだと云うほどのことでもないけれど。2016-02-26 scriensyot

 

 

《情報の質について》
SNSに溢れている情報は玉石混淆である。とはいっても玉は少なく多くは石である。もともとが「つぶやき」や「今なにしてる」なのだから、当然のことである。それは何もSNSに限ったことではなく、ネット情報全般について云えることでもる。ネット情報は手軽に発信できるし編集過程を経ていないから、ここでも玉石混淆というよりも真贋定かならずということである。

一般的なマスメデイアは編集者の編集能力が問われるものである。YAHOOニュースなどネットメデイアも同様である。機械的にセレクションされているとしてもアルゴリズムの構築に編集者の意向が反映する。 即ち、産經新聞:フジテレビ、読売新聞:日本テレビ、朝日新聞:テレビ朝日という関係を承知した上でテレビ報道を視聴すべきことと同様である。

《スマホというもの》
スマホの多機能化高機能化はいまさら言挙げするまでもないことである。コマンドを入力していた初期パソコン世代にとっても、ポケットに収まらないから携帯電話用に小型バックを持ち始めた携帯電話第一世代にとっても、最近のスマホの持っている多機能さは驚異的である。総てをスマホで用を足し、PCも手帳も利用しない、あまつさえ業務用と私用とにわけてスマホを二台持つと云う利用者も少なくないと云う。 朝から晩まで寝ている時もスマホを離せないと云うのも宜なるかなである。

スマホを紛失したり破損したりすれば恐慌におちるというのも当然であろう。突然のフリーズに悩まされた初期PC世代からすればバックアップは当然のことであるのだが、昨今のスマホ世代はバックアップの概念すら消えているようだ。 手軽さや便利さの背後にはリスクが潜んでいると云う当り前過ぎる常識すら通用しなくなっているようだ。

パソコンとの併用を望みながらも、経済的な理由でモバイルオンリー・ユーザーにならざるえない低所得者層が増えているということである。そうした人は大画面による効果的なオンライン学習も受けられないし、各種情報収集でも不利になっている。この情報格差がメディアリテラシー格差のさらなる拡大を引き起こしているのではなかろうか。

《文字数そしてリンクについて》
入力文字数に制限があるTwitterでなくとも、閲覧する画面が小さいから、長文は読まれない。大画面での一覧性はないから情報入手範囲も蛸壺化せざるを得ない。FaceBookやTwitterで垂れ流される情報は軽く舌足らずであり、溢れる情報の洪水のなかに日々刻々埋没してゆく定めにある。良いか悪いかではなく、違いを承知した上での使い分けが肝心なのであろう。

スマホに限ることではないが、ネット情報というものは、自分が興味あることについて、それを配信しているサイトを検索したり、必要なアプリをインストールしたりして自分から能動的に動かなければならない。さらにその上で真贋を見極める能力も要求される。

従来型メディアは一般人にとっては受動的であり編集者の存在があった。 なにより発言者《発行者》の識見が問われた。それに較べればネットメディアははるかに能動的、特にスマホは手軽で安直に発信できると云う意味で能動的である。PCは多少なりともスキルを要求されたし、WEBサイトの構築やBLOGの発信もそれなりにスキルを求められている。SNSははるかに簡便であり、能動的な傾向は加速された。誰でもスマホは誰でもTwitterであり、誰でもFaceBookなのである。

《SNSの限界・ネットの村社会化》
SNSは既に限界を示しつつあると云えよう。ネット社会、デジタル化社会と云うものは速度の限りない追求なのであろう。端的に示されるのは、即座のRES要求であり株式市場の限りない時間短縮である。”いいね”やLINEの即RESに象徴的なことがある。ネットの巨大な村社会化ともいえる現象である。手軽な発信者は「承認要求」を隠すこと無く、それが満たされなくなると「ニヒリズム」に陥ると解説されることがある。村八分への恐怖とでも云えるのかもしれない。

速いし手軽であるスマホの普及は、ネットの村社会化の増幅というアイロニーを生み、利用者の承認欲求を増幅させると云うジレンマを生み、どこかでニヒリズムにつながりかねないジレンマが潜んでいる。であればこそ、アナログの持っていた意味や役割、速さだけを追わないで、立ち止まって考えることの意味を改めて考えさせてくれる。手書きの葉書や封書の持っている役割をもう一度考え直すべき時期に至っていると思える。アナログに戻れと云うことではなく、小さな画面に指先で打ち込み、ろくな見直しも読み直しも無く即発信する。変換間違いも誤用もそのままである。

発信側だけの問題ではない。受信側でも画面をタップ、スワイプして続きを読もうとはしない。舌足らずの発信のさらに一部だけ読んで事足れりなのである。まさに「片言隻句」のオンパレードである。

《ネットの村社会化》
SNSでの発信は承認欲求を満たすものと云う説がある。並行してそれを満たす者同士で集まろうとする傾向もあると云う。それはそのまま、異端者を見境なく排除してしまうと云う傾向も認められる。グローバルであるはずのネット社会の村社会化というジレンマでもある。

《閑話休題》
弥生三月も半ば近くになり、桜待つこの頃である。今朝の気温5度、肌寒いものの日ざしは暖かい。蕾を膨らませ彩りを増している鄙桜を窓越しに眺めていて考えた。桜を待ちわびるように、いつの頃からなったのだろうかと「鄙からの発信」アーカイブを検索してみた。 鄙桜の記事が急に増えたのは2010年の春のことである。岐阜市の事務所を閉めて父母の介護に専念しながら、自分の居室の窓から見える鄙桜が日々姿を変えてゆく様子を追いかけて以来のことのようである。

つぼみ膨らみ、咲き始め、満開の桜を車椅子の母と共に眺め、紅色を増しながら散りゆく桜を送り、葉桜の緑濃くなってから母が逝っていらいのことである。桜を待つ今の時期は椿が花盛り、ラッパ水仙も咲いている。20160315lappa20160309tubaki20160314tubomi

関連の記事


カテゴリー: 茫猿残日録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください