AIと鑑定評価

しばらく前に「GISと不動産鑑定評価」(2016.03.21)と云う記事を書いたが、昨今話題となっているAIの進歩が不動産鑑定評価になにをもたらすかと考えてみれば、不動産鑑定士の思考過程を学習し、蓄積された大量の市場データから、AIコンピュータが最適解に到達するであろう日を予想できないことでもない。そんなに遠くない未来には統計学の学習など不要であり、AIコンピュータが地価も地価変動も解析してくれるという世界が来るのかもしれない。

その時には市場で形成される不動産取引そのものが、AIが主導する市場なのかもしれない。既に株式市場はAIが主導し支配するのと同じように、不動産市場においてもAIコンピュータが圧倒的位置を占める時代がやってくるのかもしれない。《AIとは Artificial Intelligence の略であり、人工知能と訳される。 学習し推論するコンピュータであり、既にカーナビやパソコンの検索機能でAIは身近なものとなっている。「What’s AI」》

市場に溢れる不動産情報を集積し、学習し、推論するコンピュータが出現するとしても、不動産価格を決定する判断は鑑定士の独壇場だと云う人がいる。果たしてそうであろうか。判断するから鑑定士たり得るのではないのであり、「鑑定士の判断です。」で済まされることではなかろう。 最終判断に至った経緯と判断の基礎とする資料を如何に論理的に説明できるかが問われるのであり、その説明をもって信頼を得られるか否かに不動産鑑定士が市場に存在する意味が認められるのであろうと考える。

別の視点から考えてみれば、一つ一つの個性溢れる不動産《評価対象不動産及び取引事例不動産》の個性とか特性とかを見極める作業と、BIGデータ処理とは対極にあると考える。BIGデータ処理の過程では個性は滅却されてしまうのである。其処にはまだまだAIコンピュータに鑑定士が取って代わられる世界が近々に訪れるとは思えない。

しかし、不動産価格指数の判定において不動産鑑定士の調査と判断が前提とされたのは、価格指数試行期であった2012年度からしばらくのことであり、2016年3月に試行された商業地価格指数判定において不動産鑑定士の関与は必要とされていないのである。AI的地価評価と云う面からしても、逐次進化しつつあると聞こえてくる。

AIコンピュータが不動産鑑定士に取って代わるのは、今少し先の話かも知れないが、地価水準やマンションの価格水準、価格推移指数などをAIコンピュータが代行する世界はそんなに遠くない気がする。十年後あるいは五年後には実用に堪え得るAI地価が実現するかもしれない。その時に不動産鑑定士はどうすればよかろうか考えようと云うのではない。そのような予測が少なからず非現実的ではない以上、そういったデジタル世界やビッグデータやクラウドシステムそしてAIコンピュータの変化発展といった環境変化を視野において、鑑定評価はいかにしてそれらを取り込んでゆかねばならないか、変化しなければならないかを考えておこうと言うのである。

オセロゲームに始まり、チェス、将棋の世界ではAIコンピュータが人間に勝つようになり、最近では囲碁の世界でもAIコンピュータが人間に互角の勝負を挑むようになった。人工知能が人間と同じような能力を持つというSF小説のような世界が、いま現実になろうとしている。人工知能が、世界トップレベルのプロ棋士に勝利し、人工知能が書いた小説が星新一賞の一次選考を通過するのであり、これまでは人間にしかできなかった複雑な判断が必要な分野にまでAIコンピュータが入り込み始めたのである。

IT化の裏面を覗く記事を書いたのは2000年のことだった。
IT革命の裏側 :2000年08月31日」

デジタル世界は専門職業家の存在意味を変化させるだろうと書いたのは2010年のことである。医師、弁護士、建築家、会計士などの知的職業にたずさわる者は、人間同士の微妙な触れ合いに精通しなければならない。なぜなら、デジタル化できるものはすべて、もっと賢いか、安いか、あるいはその両方の生産者にアウトソーシングできるからだ。バリューチェーン(価値連鎖)をデジタル化でき、切り分けることができ、作業をよそで行えるような活動は、いずれよそへ移されるのである。
頂門の一針

不動産取引市場において名誉ある地位を占めたいと望めば、GISは言うに及ばず、ビッグデータについて、AIコンピュータについてなど時流の先端に対して傍観者の位置にあってはならないと考えるのである。先端を走る必要はなくとも、全体像を的確に把握し適当な位置を占める努力は怠ってはならないと考えるのである。その意味では管見鑑定士や井蛙鑑定士であってはなるまいと考えるのである。

冒頭で「統計学の学習が不要となる時代が到来かも」と書いたが、AI型評価や価格指数をブラックボックス化してよいわけは無いのであり、統計学の素養が不要になるとは考えていないのである。同様にGISの素養もビッグデータ処理の素養も不可欠であろうと考えている。

お彼岸に墓参にやってきた孫娘の寝顔を眺めながら、彼女が思春期を迎える頃に、彼女を取り巻く環境はどのようになっているだろうかと考えた。 茫猿にとっては、ラジオと自転車以外、電話もテレビも自家用車も新幹線も飛行機旅行も農業コンバインもそしてパソコンも総てが物心ついてから以降に生じた変化だった。それら総てが新鮮な驚きだった。

息子たちの世代では自家用車は生まれた時から身近に存在したし、パソコンは幼児期からオモチャだった。かろうじてインターネットや携帯電話以降が物心ついてからの変化である。孫娘は既に母親のスマホから流れてくる無尽蔵のアニメ付きの歌曲が子守唄であり、不要になったスマホ機をタップして遊ぶのがオモチャである。AIも彼女の成長とともに進化してゆくのであり、AIコンピュータ環境は親世代のテレビやパソコンやゲーム機と変わりない慣れ親しむ環境になってゆくのであろう。

《茫猿独白》この記事の初稿は一ヶ月も前のことである。鄙桜にかまけていたことでもあるし、テーマを絞りきれなかったこともあって、掲載できなかったのである。桜記事ばかりだったから目先を変えたくて脱稿としてみたものの、何度読み返してみてもピンボケ記事である。思うに退隠鑑定士の限界を露呈したと云うことなのであろう。だったら掲載しなければよいのであろうが、自らの老化を見せる思考記録として掲示しておくのである。ここまで読み進まれた方にはまことに申し訳ないことであるが、せめて他山の石屑にでもなればと考えている。

八重桜と御衣黄を除けば桜の季節が終わった鄙里は、若葉萌え出ずる季節である。初夏を思わせる陽光に浅葱色と浅黄色のグラデーションが映えている。20160414wakaba

《追記 2016.04.15 04:19》 昨夜、この記事を掲示した直後に熊本で震度7の直下型地震が発災した。一瞬、阿蘇山の噴火かと思ったが内陸直下型地震だったようである。最初に報道された熊本放送局のライブ映像では、さほど大きな揺れには見えなかったが時間の経過とともに、人的被害や家屋の倒壊、インフラやライフラインへの被害が報道されている。改めて地震列島日本を思い知らされている。日本列島は火山噴火や東南海地震だけでなく、いたるところで内陸直下型地震の危険を潜めているのだと思い知らされている。

 

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