我が身の後始末

春の嵐が過ぎ去った今朝、鄙里ではヒラドツツジや牡丹が咲き始めました。余震が続く熊本・山間地では土砂崩壊の危険から、雨のなか避難所を移動しなければならない嘆きが報道されている。何のお役にも立てない非力な身ではあるが、思いだけは被災者に寄せていたい。 そんな折りに、先日の朝日新聞デジタルにはこんな記事が掲載されていた。


『法事などに僧侶を手配するサービス「お坊さん便」がネット通販大手アマゾンに出品され、仏教の主な宗派などでつくる全日本仏教会(全仏)が販売中止を求めている問題で、アマゾン側が文書で回答していたことが分かった。全仏の意見をサイト上に載せる意向を示したが、中止要請への言及はなく、事実上、販売中止に応じない考えを伝えたとみられる。』《朝日新聞デジタル》20160422botan

FaceBookには、この記事をリンクして、こんなコメントが載っていた。
『こういうの本当にむずかしい。祖父母の葬式時に「こんなにかかるのか!」と驚いたことを覚えているけれど、実際には集落のお寺、高齢化に伴い檀家や仏事が減っていて、なかなか食べていけないという話を聞いたこともある。
じゃあ自分が喪主になったら…。うん、できればシンプル葬を遺言で指定しておいてほしいです。』

《このFB書き込みを目にした茫猿はフォローコメントする。》
「心配しなさんな。既に終活済みだよ。」

フォローコメントを投函してから、多少の補足が必要だろうなと考えた。
《で、この記事であるが、本題に入るその前に》
どうして此の時期にアマゾンが僧侶手配サービスを出品したのか、その背景を考えてみる。端的に云えば、少なからぬ都市居住者が檀家寺との付き合いを消失させていることがあるだろう。法事や葬儀を主宰してくれる僧侶が身近に見つからない背景があるのだろう。 もう一つの背景は寺院側に存在する。仏教寺院は檀家制度の上にアグラをかいて、新しい帰依者《帰依者とまではゆかなくても》を発掘する努力を怠ってきた。一部観光寺院を除けば、多くの寺院は檀家以外の人々にとって無縁の存在と化してしまっている。

需要があるから、提供商品として成り立つから、アマゾンが扱うのであろう。葬儀の場合においては、葬祭業者が求める宗旨宗派に応じて僧侶を派遣してくれる行為が、葬祭業務の一部として既に行われている。 日本仏教会はアマゾンに販売中止を求めるよりも、自らがサイトを立ち上げて、葬儀や法要に僧侶を派遣する活動を開始すべきであろう。それはiNet時代の宗教者の一つのあり方であろうし、以後に帰依者を増やしてゆく大きなきっかけにもなることであろう。

《さて、本題に入り、我が葬儀というか終末処理につて》
親族とくに親の終末儀式などというものは、たずさわる者の年齢やおかれた状況によって考え方が変わってゆくものであろう。生前の関係に大きく左右されるものであろうし、まして貧困に窮していれば何も関わりたくなかろうし、それなりの位置を得ていれば、体面を考えることもあるだろう。

何よりもまだ親の死を現実のものとしては考えていないのかもしれない。まだまだ元気そうで、とうぶんは死なないだろうと思っていればこそ、こんなコメントも投函できるのであろう。我がフォローコメントだって冗句まじりで応えられるのも、まだしばらくは死なないだろうと思っていればこそである。《とはいいながらも、明日あると思うあだし心なのであろうが。》

親の死を現実のものとして意識し始めたころの我が身を振り返ってみるに、一番大切に考えていたことは、「親の尊厳ある旅立ち」であり、「親の意向に添って、自宅で終わりを迎えてもらう」ということであった。それだけに尽きていた。

親の死後、特に最初に迎えた母親の葬儀に際しては、長年連れ添った配偶者である父の意向を忖度したうえで、長いお付き合いを得ていた隣組のお世話になり、檀家である地元の寺院を導師にお願いし仏式で行うこと、華美にならない程度にしめやかに行うこと、喪主である我の世間的な縁に連なる人には無用の義理付き合いを憚って知らせないことであった。だから家族葬を原則にして、父母の生前のお付き合い御縁を本旨とした。 それでも孫に言わせれば『祖父母の葬式時に「こんなにかかるのか!」と驚いた』となったのである。

質素にとは思っていてもそれなりの義理も仕来りもある。それらの一連の行事については、若い頃に関わった娘の葬儀や、不動産鑑定評価 の師匠の葬儀などが大きく影響しているのも否めないことである。最近多くなった縁者や友人たちの葬儀の様々にも影響されていることである。

そこで、私の葬儀である。自宅にてと望んでいるが病院で死ぬかもしれない。死因は病気だけではないので事故死もあれば災害死もあるだろう。突然死もあれば、数日から数ヶ月の準備が与えられる場合もあるだろう。 いずれにしても死んだ私を火葬場に運び、骨にしてから自宅へ持ち帰えり、骨壺は雑木林の何処かに埋めてくれれば十分であると考えている。《遺棄は論外であるし、遺体埋葬は手続きが煩瑣であるし事実上できないことである。》

親族や隣近所の意向や手前もあることから、何らかのセレモニーをと考えるのであれば、床の間に骨壺を安置して、訪れてくれる方に焼香なり献花なりをしてもらえばよい。読経の代わりにマーラーかマイルス・デービスを流しておけば良かろう。日頃愛用しているKENWOODミニコンポのHDに保存してある雑多なジャンルの音楽を流すのも悪くないであろう。

それでも、納棺や遺体の配送費、火葬場利用料、茶菓の接待費などを合計すれば、多少のまとまった金額となる。僧侶に読経を依頼すれば諸々の諸費がふくれ上がってしまうだろう。《棺桶だって松竹梅のランクがあるから、息子たちの負担にならないように、若干の終末処理費は遺しておく予定ではある。》

私の思いだって、今よりもさらに死が身近なものとなる頃には、どのように考えているのか判ったものではないのである。常々老妻と話していることであるが、所詮 葬儀というものは死者の為ではなく、遺された生者の「一つの区切り」の為のものである。どのような考えを死者が遺そうとも、死者は異議申立一つできないのだから、生きている者が好きに行えば良いのである。

その上で、時々は思い出してくれればと思いもするけれど、月日が経てば忘れるだろう。新しい記憶が積み重なることは、古い記憶を深みに沈めてゆくものである。忘れてくれていいし、忘れなければいけないことでもある。でも時には思い出してほしい。思い出してもらえる為には、良い記憶を重ねておかねばとも考えている。自らの死を考えると云うことは即ち、今を考えることに他ならないのだと今さらながらに思わされている。

どうして、こんな駄文を「鄙からの発信」に掲載するのだろうかと、訝しく思われる読者がおられるかもしれないので、付け加えておく。茫猿の死後に、彼は何を考えていただろうか、何を望んでいただろうかと残された者は忖度するものである。茫猿自身が父母を見送った時にそれを考えた。今でもあれで良かったのだろうかと考えることがある。

であればこそ、送る者と送られる者が、意思の疎通を図っておくのは好ましいことである。とは言いながらも、面と向かって死出の旅支度などとは話題にはしづらいものがある。照れもあるし、《些かも気にしていないという》見栄もある。その意味で、ネットやSNSは便利である。過不足なく考えを伝えることができるし、誤解されることも少なかろうし、訂正も簡単である。何よりも記録が残るし、腹が立つのであれば無視しても波風は立たないだろう。

もう一つ蛇足を加えるとすれば、こうして「鄙からの発信」に記すきっかけを与えてくれた《FaceBook書き込み人に》礼を云うのである。こんな益体もないことを書き連ねていられる茫猿に引き比べて、余震におびえエコノミー症候群に悩まされる熊本の人々を気遣う。病床にいる友のこと、止揚学園の人々のこと、墓に眠る友のこと、様々なことおもう陽春雨上がりの朝である。

鄙里雑木林の新緑に、ヒラドツツジとハナミズキが彩りを添えている。20160422hilado

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