ありがとう

明日は五月第二日曜日、母の日、そして母の六回目の命日である。
仏事風に言えば七回忌ということである。

生前に母の日を祝ったことなど無かった。結婚して間もない頃に一度か二度、義母実母併せて母の日を祝った記憶があるが気まずい行き違いがあり、その後は気に懸かることはあっても行動に示したことは無かった。その挙げ句に、母の命日は毎年の母の日前後に巡ってくる。

お供えをと白いカーネーションを探したけれど見当たらなかったので、ピンクのカーネーションを求めて仏前に飾ってみた。仏壇には庭に咲いた撫子と芍薬を供えた。お供え菓子は、お下がりをいただく生きる者の好みを優先して生和菓子を用意した。20160508hahanohi3

母の一生を振り返ってみれば、嫁いできた翌年に私が生まれた後しばらくして、父は二回目の応召で出征してしまった。母は父のいないあいだに生まれた弟と私の乳飲み子二人を抱えて留守を守ったのである。その頃の我が家は舅、姑は既に亡くなっていたけれど、疎開してきた小姑たち(父の姉たち)が入れ替わり立ち替わり居座っていたそうである。

間もなく戦後となり父は無事に復員してきたものの、職は無く農村に住まいながら食糧難に苦しんだそうである。そして農地解放令により資産を無くし貧苦に喘ぐこととなる。その頃の辛さを七十過ぎても、母は繰り返し繰り返し語っていた。

父が教員の職を得たし、わずかの水田と畑を年賦購入で手に入れたことから、それなりに生活は安定したものの、母は日々の慣れない農作業に追われながら農婦としての経験を積み重ねていった。納屋のなかで夜なべ仕事に藁を打ち、縄をない俵を編んでいた母の姿を今も思い出すことができる。1950年前後には畑に小麦や陸稲を作付けしたり、サツマイモを苗から育てていた様子も記憶している。総て鍬と鎌だけの作業である。ささやかに養鶏を始めて卵を出荷しだしたのもその頃のことである。

六十年以上も前の頃《茫猿は十歳前後》、北風のなかでの麦踏み、初夏の田植え、真夏の田の草取り、秋の稲架(はさ)立て・稲刈り・脱穀・稲架解体などの一家総出の農作業手伝いも、今となれば懐かしい記憶である。

快晴の母の日、畑に出て思う。この鄙里に果樹畑と蔬菜畑と雑木林を残してくれた母のことを思い、「母さん、ありがとう」とつぶやくのである。様々ないきさつがあったこととはいえ、藁屋根の二間きりの祖父の隠居所に新居を構え、地拵えから始めて数次の増改築を経て、今茫猿が住まう寓居と畑や雑木林を残してくれた父母のことを偲び、改めて感謝するのである。今さらながら、まことに今さらながら、子をもって知る親心なのである。

この雑木林と畑が無ければ、我が余生は彩り薄きものとなっていただろう。晴れれば畑に出て耕し、雑木林は野趣を残しつつ整える。雨降ればかつて求めた書を読み、モニターに向かいてキータイプする日々である。閑静な日々ではあるが侘しいとも寂しいとも思わない。時に索莫たる淋しさも楽しんでもいる。そんな日々を過ごせる幸せを残してくれた母と父に「ありがとう」と礼を口にするのである。

《さて、話変わって》先号記事で松葉海蘭(マツバウンラン)の花を載せたが、鄙里ではまだまだ多くの野生の花が咲いている。代表的なのは蒲公英(タンポポ)であるが、あまりにポピュラーだから記事にはしない。写真を載せるいずれの花も可憐であるが、その実態は手に余る草々である。除草をしないで放置しておくと翌年には手がつけられなくなっている。特にタンポポやカタバミなどは根が太く深いから除草にも手がかかるのである。根を残して地上部分だけの除草に終われば、根を太く強くするだけなのである。踏まれて強くなる雑草の雑草たる由縁か。

母の日にふさわしいのは、その名も『母子草』である。iPhoneに納めようとしたら、てんとう虫がやって来ていた。名前の由来をiNetで調べていたら、「老いて尚 なつかしき名の 母子草」(虚子)の句に出会った。「老いてなお」と詠むよりは、「老いてゆえ」と詠みたいが如何なものであろう。名前の由来は、全体を覆ううぶ毛によるという説もあるが、定説はなさそうである。20160508hahakogusa

こちらは見かけよりもはるかに強い『片喰(カタバミ)』である。抜き易そうだけど、軽くつまんでゆくと根を残してしまう。名前の由来は葉の形によるものらしい。20160508katabami

庭石菖である。名前はゆかしいが帰化植物である。丸く見えているのは種子である。群生して風に揺れているさまは松葉海蘭と同じく嫋やかであるが、その実手強い草である。20160508niwasekisyou

松葉海蘭を再掲しておく。20160504yurer

実はいずれの花も家人が管理する裏庭に蔓延っている花ドモである。《あえて花ドモである。》 種が風に乗って屋敷内のあちらこちらや畑に広がってゆくから抜き取ってはいたのだが、家人が花壇作りに興じるようになってからは、これらの花を抜かずに「グランドカバー」とか「イングリッシュガーデン・スタイル」とか言うので、仕方なく生えさせているのである。さきゆきは困ったものだと案じてはいるものの、例によって我が亡き後のことなど知るものかである。

《閑話休題》父の応召から思い出したことがある。応召二度目の父は運良く内地で新兵訓練にあたっていたそうである。新兵訓練とは名ばかりで、毎日、公園か都市近郊林かなにかの土地を畑に開墾しての食糧生産に明け暮れていたという。都市空襲の話も伝わっていたそうだが、残してきた家族のことなど何も考えなかったそうである。内地決戦になればいずれ死ぬ身である、何かを考えることなどなく、ただただ鍬を振るだけの日々だったそうである。「戦争とは嫌なものだ。」とは、母が亡くなってしばらくしてから孫たちの尋ねに応じて重い口を開いた、老いた父の述懐である。私には兵役時代のことなど何も語ってはくれなかったし、私が尋ねることも無かった。

もう一つ思い出したことがある。召集令状が届いた翌日に、父は乳飲み児の私を自転車の荷台に付けた籠に載せて、半日何処かへ出かけていたそうである。母がいつか語ってくれたことだが、何処へ出かけたのか、ムツキや飲み物をどうしたのかは何も聞かされていない。出征する前夜は前後不覚に酔い、重い二日酔いの翌日は隣家の方に付き添われて応召したそうである。「お前をおいて、正気ではとても家を出られなかったのだろう。」とは、母の述懐である。

戦火を知ること無く、親が戦火に倒れることも無く、蔵と納屋が半壊したと伝え聞く三河地震《1945.01.13》の時は乳児だった。伊勢湾台風をはじめ揖斐川・長良川両川の戦後数度に及ぶ堤防決壊は近隣市町村に冠水被害をもたらしたが、茫猿が住いする両川に挟まれた福束輪中が堤防決壊の水害にみまわれることは無かった。それら総ては偶々の僥倖に過ぎなかったのだと、神戸、東北、熊本の人々に引き較べて思うのである。

《 老いてなお なつかしき名の 母子草 》(虚子)
《 ははの日 なればとて 白き 花かざる 》(茫猿)

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