献杯そして墓前にて

死者は墓にも仏壇にもいないと、さる知者はいう。ではなぜ墓や仏壇にお参りするのかと云えば、墓や仏壇が死者につながる糸口だからである。死者に再会する案内口であるとも云う、墓地や仏壇を通じて死者に出会おうとするのである。

それらを礼儀と考えてもよかろうし、プロトコルとも云えよう。亡き友・中村博一君の一周忌を前にして彼の墓参と彼を偲んでの献杯の集まりが06/19〜06/20と京都にて開かれた。鳥取から300kmを運転して参加した友、京都在住の友ふたり、そしてローカル列車を乗り継いだ茫猿の四人が集まったのである。《往時であれば、中村と垣東のふたりも、この輪の中に居たのである。》

06/19夕刻に市内の某処に集まった老朋友四人は、盃を捧げて盟友を偲び思い出話に耽るのである。話は彼の病歴から自らの病歴に及び、彼の終活から自らの終活へとつながってゆくのである。話し疲れ呑み疲れてお開きにするかと誰かが言い出した頃には日付が変わりかけていた。我が佳き友よの世界なのである。20160621kenpai

思い返せば2012 年の四月に闘病する彼を見舞って御衣黄桜の下に集まった老朋友たちでもある。その折にまた近いうちに会おうよと誰かが言ったら「次は無いかも」とつぶやいた彼である。そして、それはそのまま現実のこととなり、それから四年後の彼を偲ぶ集まりとなってしまった。何度かの機会はあったものの、全員が集まることは無かったし、彼の病状が許さなかったこともあった。《久闊を叙して御衣黄 投稿日: 2012年4月25日 》

会者定離などとは言わない、既に明日無き日々にいる我々なのである。髪は白く皺は深くシミは広くなっているのである。笑顔のうらに病自慢、孫自慢、妻女への愚痴を垣間見せる老朋友たちなのである。この夜に空けたボトルの数は、紹興酒1本、焼酎1本、ワイン2本、ビールの瓶数は記憶無しである。さほどに呑めない者もいたから、老朋友たちの衰えない酒量恐るべしである。まだまだヤルモンダと思ったことでもある。誰かヒトリは、朝になって気づけば、着の身着のままで寝床に横になっていたそうである。《宜なるかな》

翌朝、陽が高くなってから、彼の眠る菩提寺門前に集まり墓に詣でるのである。菩提寺の山門越しには比叡山が望め、墓石の前からは左大文字が間近に眺められる。境内にはクチナシの花が咲いていた。20160621tenneiji

彼が好きだったビールをお供えした後に、いただくお下がりは迎え酒だった。不謹慎と受け取られても構わない。ばらを供え、お下がりのビールを頂きながら、バラに笑顔が似合う在りし日の彼と語らうのである。もう帰らない彼と過ごした”酒と薔薇の日々”を懐かしむ老朋友たちである。20160621bosan

センチメンタルジャーニーの結びは、同志社大学・明徳館地下の学生食堂である。学食で息子や娘たちより若く、孫に近い年齢の学生に混じって昼食をいただくのである。キャンパスには新しくて快適なレストランも食堂も幾つかあるが、老朋友たちが半世紀前を偲べるのは明徳館地下なのである。ラーメンライスが常食だった頃を思い出し、今よりは随分と汚かった学食を懐かしむのである。

また三回忌が巡ってくる頃まで、欠けないように居ようなと、友に別れを告げた茫猿は、錦市場に立ち寄り、ハモの照り焼きと水茄子を老妻への土産にと買い求め、シャトル切符で帰宅するのである。帰りきた茅屋では梅雨晴れの下、木槿が咲いていた。20160621mukuge

軒先のグリーンカーテンでは、咲き始めて十日間、雄花ばかりが咲いていたゴーヤに雌花が一輪咲いていた。梅雨明けも盛夏も間近いのである。20160621mebana

こちらは、ずっと無駄咲きだった雄花クン。20160621obana

《2016/06/22追記 墓地考》
中村の眠る墓地は佳いところだと思う。京都の寺歴四百年を超える古刹禅寺の寺院墓地である。寺町通沿いにあるこの寺は、比叡山の眺望を一幅の絵のように見せる山門「額縁門」と、江戸時代の茶人金森宗和の墓があることで有名でもある。墓前に立てば比叡山と左大文字山が近くに見える。緑の多い境内は、四季折々の花が咲く。春は枝垂れ桜、秋は萩、今はクチナシ、冬は山茶花が咲く。楓、銀杏、榧の古木もある。惜しむらくはいささか手狭と云うことであるが、大都会のなかであればやむを得ないことである。

冒頭に記したように、墓地が亡き人の思い出につながる場所であるとすれば、京都に生まれ京都に生きそして亡くなった彼にふさわしい墓地である。訪れる者を慰めてくれる場所でもある。寺を出て東へ二分も歩けば賀茂川の河畔であるし、地下鉄鞍馬口駅までは五分ほどである。賀茂川を渡れば、下鴨神社にも植物園にも近い。

彼を偲ぶ場所と云う意味からすれば、いつかは一人で訪ね付近をのんびりと心ゆくまで歩いてみたい。植物園近くには彼につながる思い出の場所もある。高野や一乗寺まで足を伸ばしてもよいかもしれない。私にとって、彼を偲ぶに格好の場所である。

余談ながら、翻って私はといえば、特に墓所を求めることが無ければ、鄙里寓居に近い村落墓地に埋葬されるであろう。田畑に四囲を囲まれた小さな村落墓地であり、明治の頃に先祖が建立した古びた苔むす墓石が立っている。父も母も娘も弟も眠っている。祖父母も眠っている。訪れる者がいたとして、私を偲ぶに格好の場所であるかどうかは判らない。それでも茅屋から歩いて十分ほどの距離だから、茫猿の終の棲家としては程々であろう。どちらにしても、その時はいない私にとってはどうでもよいことである。

それにしても、博一はいない。もう何処にもいない。しばらく忘れていた、静めていた寂寥感とか喪失感というもの、そして幾許かの悔いに苛まれている。墓前にたったせいであるが、立たなければ佳かったと云うことでもない。無くして知ると云うことであり、無くして初めて知るということである。昨日から何度も”タグ”「友よ」で検索して、彼に関わる記事を読み返している。繰り返し読み返して追憶のなかに遣る瀬無さを鎮めている。《こうして由無し事を書き連ねることそのものが鎮めなのであろう。 しゃーないなー》

(2016.06.28 追記)
墓参から数日を経て一緒にお参りした鳥取の友人が写真を送ってくれた。その写真を眺めていて、あることに気付いた。 その写真は墓前でお供えお下がりの缶ビールを手にする茫猿を撮っている。墓前にいる茫猿たちを写すために、撮影者は墓石の裏手に廻っているのである。だから写真には備えられている卒塔婆の裏側が写っているのである。

20160620soto-baこの写真に写る卒塔婆の裏側を眺めていて、この一年余りの月日の流れを思わされた。生々流転と云おうか、帰らぬ日々と云おうか。

平成27年3月12日 願い人 中村博一
今は”大寧宗博禅定門”と名を変えた彼が、東山の日赤病院へ入院する直前であろう。その年のお彼岸を前にして、彼岸供養を行ったのであろう。
平成27年7月31日 願い人 (長男)
平成27年7月31日 願い人 (長女)
平成27年7月31日 願い人 (妻)
忌明け法要の頃であろう。

平成28年6月12日 願い人 (妻)
一周忌法要の頃と思われる。

今日は中村君の命日である。 彼の命日に、写真に見る卒塔婆から、様々なことを思わされた。卒塔婆一つから様々なことを思わされる齢になったのだとも思わされている。 一緒に墓参した彼等が気付いているだろうかと考えて、感慨を伝える手紙を書いた。

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