蝉時雨に急かされて

遠く関東在住の友人から留守電メッセージが着到した。小声で、しかも途切れていたメッセージはこうである。「◎○です。・・・・病気なのかと案じています。」

病とは誰のことかと気掛かりなので、すぐに架電してみたら、「鄙からの発信」の更新が半月近くも途絶えているから、脳梗塞になったか心筋梗塞かそれとも癌発症かと気掛かりで電話したとのことである。嬉しいことである。発信が途絶えたら気に懸けてくれる友がいる。多分、いや必ず、彼以外にも「どうしたのかな?」と気に懸けてくれている読者がいることであろうと思っている。《自惚れている、のが正しいのであろうが》以前にも別の友から類似の電話やメールを戴いたことがある。

ことは、そのような深刻なことではなくて、七月半ばに幼児と生まれて間もない乳児の孫二人とその母親が、鄙里へ静養に到来しているのである。鄙里の草刈りや夏野菜の収穫に加えて、長孫の鄙爺手製プール遊びに付き合ったり、次孫をあやしたりするのに追われて「鄙からの発信」にまで手が廻らなくなっているのである。時々はこのMACを使ってYouTubeでアニメを見るのにも付き合わされているから、MACまでも孫に占拠されている。

ブックマークバーには、”アンパンマン”、”ノンタン”、”チャンギントン”、”プリキュア”などという見慣れない名前が並んでいる。ビデオ録画HDも同様なのである。そこで、せっかくのお問い合わせに応えて近況報告を含め新記事を掲載するのである。とはいっても、幾つかのメモをランダムに羅列するだけであるけれど。

《孫の着到》
滞在している孫を眺めていて思わされる。長孫は半年前にやって来た時と較べて、目覚ましく成長しているのである。一人遊びをするようになった。自我が芽生えたと云うか、自己主張が強くなった。しかも幼児なりの理屈をつけるようになった。

買い物に行けば「お母さんが買ってくるように言っていた。《虚言である》」とか、「お母さんが、これを爺々に買ってもらったらと言っていた。《虚言である》」などと、もっともらしい理由を言うのである。 プールでは帽子を冠るようにと注意すれば、「頭がかゆくなるからいらない。」などという。 花火をすれば、購入してある花火が残り少なくなると、「明日も花火をしたいから、明日に残して今夜はここで止める。」と、しおらしいことを言うのである。ほだされて翌日、鄙爺は新しく買い足すのである。

そんな孫の成長に較べて自らの衰え、先行きへの不安を自覚するのである。日頃のお定まり繰り返し日常を過ごす老夫婦だけの生活では感じなかった、幾らかは感じていても実感の乏しかった幾許たる不安を自覚させられるのである。彼等が小学校入学、高校などの受験の頃に茫猿はどうしているのだろうか、そもそも達者で生きているであろうかなどと考えざるを得ないのである。水遊びに興じる幼児や夕風に目を細める乳児を見ていると、亡き父母にも曾孫を見せてやりたかったなどと叶わなかったことを思い、生者必滅会者定離という世の理を自覚せざるを得ないのである。

《相模原殺戮事件》
一方的な誤った思い込みから、無抵抗の多くの人たちを襲った殺人者には憎しみと怖れを感じる。同時に彼のような不気味な者を生み出した社会にも怖れを感じる。

ヘイトスピーチを許容する社会、重度の障碍者を見ない振りをする社会、地域に重度障碍者を受け入れる施設の存在を許容しない社会、老健施設や保育園すら許容しない社会に怖れを感じる。

大学を卒業してから犯行に至るまでに、様々な兆候を見せていただろう犯人に無関心であった社会《彼の周辺、職場、交友関係、縁者、警察医療関係》にも怖れを感じる。

そんな時には止揚学園のことを思う。福井達雨先生であれば、止揚学園のスタッフの皆さんであれば、彼のような考えを言う者があれば、全力で阻止するであろう。何よりも止揚学園の存在そのものが、「重度心身障害者は社会のお荷物などではなく、社会に豊かさをもたらす存在であり、健常者が置き忘れている心の豊かさを気づかせてくれる存在」であると教えてくれる。

相模原の福祉施設を責めているのではない。止揚学園は特別である、福井達雨先生は特別であると片付けて事足れりとする社会に怖れを感じるのである。社会福祉施設に給食の利用を求め、夜間には施錠を求める社会《行政》の、単純な経済合理性指向を危ぶむのである。

ヘイトスピーチの横行を許している社会も、ネットに溢れる少数者の横暴を許している社会も、経済合理性だけを優先する社会も、その根っこにあるものは同じなのであろうと危ぶむのである。生活苦にあえぐ社会弱者に小額の一時金を配って事足れりとする誤った驕った社会を危ぶむのである。

相模原殺戮事件を犯人だけの特殊性に矮小化してはならないのである。モンスターを産み出し許容し成長させてしまった我々社会の根っこを問い糺すべきである。我々は、彼を産み出し、育ててしまい、凶行に至らせてしまった。我々は顧みて糾すこと有りや無しやと自問自答すべきなのである。その意味からは、止揚学園が社会にありふれた施設になる時期がいつかは来たれと願うのである。無関心こそが罪であり、無関心が魔物を増長させる。

《ポケモンGOに思う》
ポケモンGOが蔓延していると云う。SNSの世界でも嵌まっている人たちが少なくない。このゲームアプリの背後に潜むものについて警鐘を鳴らす報道が殆ど見られないのが不思議である。

ゲームを起動すれば、その者の生活パターンが記録保存されることの意味について触れる記事が殆ど見られないのが不思議である。ゲームに興じる者の時間的空間的行動が記録され、ビッグデータとして処理対象となるだろうことは自明である。蓄積と解析が進めばビッグデータの存在そのものがビジネスとなるであろう。

既にGoogleやInternet ExplorerやYahooを利用するたびに利用記録は保存蓄積され、その解析結果はモニターに溢れるネット広告に反映されている。個々の対象毎にダイレクトに反映されているのであり、反映した広告の誘客効果も解析されているのが実態である。

欲しいなと思っている物がモニターやスマホに示され、クリックするだけで配送されるなんて便利で合理的だ、素晴らしいと素朴に喜んでいるうちはまだ好しとしよう。ネット広告とネット通販に慣れ親しんでいるあいだに、誘客誘導効果が高じて、いつかは趣味趣向から生き方までもが見えざる手に誘導されるようになってゆくだろう。

物だけでは終わらない。読書も旅行も医療も「見えざる手」に誘導されてゆく社会の入り口に我々は立っているのである。既に半ば以上足を踏み入れているのである。AIを装備した見えざる手は、我々を何処へ連れてゆこうというのであろうか。

今やインターネットを離れては生活が成り立たなくなっているのに気付かされる。かく言う「鄙からの発信」だって、ネットあればこその存在である。茫猿がネット社会に潜む闇について語るとすれば「天に唾する」行為なのであろうけれど。

ポケモンGOとAIが合体して社会の深層に影響度を増してゆく、ジョージ・オーウェルが描く「1984年」現代版は既に到来しているのである。合理性や利便性や見かけ上の快楽の飽くなき追求は、潜む闇も膨らませてゆくのである。非合理性とか不便さ面倒さというものが抱えている豊かさとかゆとりと云うものにも目配りするべき時に来ているのだと思っている。

《以上、友の問いかけに応えて、取り急ぎ近況報告します。推敲足らず舌足らずの羅列に過ぎませんが、蝉時雨に急かされて取り急ぎ。》

《追記.1》 「娘・亜希子のこと 投稿日: 1999年3月10日」
四十年余も前、茫猿には僅か三年に満たない短い期間を、ともに過ごした娘がいた。ダウン症の娘が大きくなるにつれ、親の欲目から見ても症状が露わになってきていた。風呂に入れると気持ちが良いのか”コロンコロン”とした大を洩らすこともあったが、誰にも何も言わずにすくい取って、流しに捨てていた。その湯で顔も洗っていた。

それでも顔を眺めていると、風邪を引いて肺炎にでもなれば終わると思ったこともある。今でも、そう思いながら身震いしたことをはっきりと憶えている。同時に”この娘より先には死ねない”と何度も思った。重度障碍児をもつ親の誰しもが”先に死ねない。残しては死ねない。”と、一度ならず思うことであろう。

彼女が短い命を終えた後しばらくしてから、あの娘の存在こそが我が家の団らんの中心だったのだと気付かされたのである。独りでは生きられない彼女の存在が、我が家の笑いと団結の絆だったのであり、私にとっても迷いの無い生き方ができた源だった。

重度の障害を抱える者を身内に持つ人たちは、様々な葛藤を抱えていることであろう。だからこそ、その葛藤を少しでもやわらげるために社会の、世間の、暖かいまなざしや、好意ある関心や、差し伸べられる支援の手が欠かせないことだと考えている。

《追記.2》
ビッグデータとAIの結合という”見えざる手”の存在は今や如何ともし難いものがある。インターネットの存在は現代社会においては必要不可欠なものとなっているし、ビッグデータの蓄積も功罪半ばするとは云え、功に光が当てられている。AIに至っては開発者自身が意図せざる効果を産み出すようになってさえいる。心を欠いた、いや疑似的な心を有するAI知能の出現も間近と云われている。これらが融合する”見えざる手”は自己増殖を積み重ねてゆくのであろう。

”見えざる手”が誘導する近未来は、どのようなものであろうかと想像する。個別的には顧客誘導とか顧客創出とか災害時避難誘導といった明確な目的や意図が存在していたとしても、そこに合成の誤謬が働かないと云う保証は無い。むしろ、合成の誤謬と云う結果が待ち受けている可能性も高いのであろう。2001年宇宙の旅で見せた”HAL9000”の反乱はより現実味を帯びてきている。

科学技術の進歩発展に携わる者にとって最も大切な資質は「倫理観」であると云われる。その伝で云えば、インターネット、ビッグデータ、AIといったデジタル社会に生きる者にとって最も欠かせない素養はリベラルアーツなのであろうと考えるのである。デジタル社会に関わらざるを得ない存在としての自らを、客観視できるための素養こそが不可欠なものなのであろう。

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