相模原事件-2

先号記事:蝉時雨に急かされて( 2016年7月30日)のうち、相模原殺戮事件について少し補足しておきます。記事の中で茫猿は「相模原殺戮事件を犯人だけの特殊性に矮小化してはならないのである。モンスターを産み出し許容し成長させてしまった我々社会の根っこを問い糺すべきである。我々は、彼を産み出し、育ててしまい、凶行に至らせてしまった。我々は顧みて糾すこと有りや無しやと自問自答すべきなのである。」と記した。

どのように書いても真実に近づけるわけも無く、百人百様の見方考え方が存在するであろうなかで、茫猿はこう考える、その背景を補足するのである。ただし、人が人を殺戮することに一片の理を認めるものでもなく、まして社会的弱者をいたぶってよい理など寸毫も認めないことを最初に断っておく。

相模原事件の犯人が大島衆議院議長に届けたとされる手紙の一節が、茫猿には気になるのである。

《犯人の手紙の一節より》 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、・・・・・

保護者の疲れきった表情や職員の生気の欠けた瞳・・云々の記述は犯人の一方的な思い込みなのかもしれない。しかし、犯人自身の処遇への不満を含めて少なからぬ職員に待遇への不満が大なり小なりあったであろうことは容易に推量できるし、一般的な福祉施設労働環境について云えることでもあろう。

犯人がいっとき働いていた障碍者福祉施設は神奈川県が設置し、社会福祉法人「かながわ共同会」が運営を委託されている”津久井山ゆり園”である。神奈川県が指定する「津久井やまゆり園の維持管理及び運営等に関する業務の基準」は公表されている資料のとおりである。職員の処遇に関わる詳細は明らかではないけれど、一般的に云われている”社会福祉施設における労働環境の厳しさ”の範囲を大きく逸脱するものではなかろうと思われる。

茫猿自身を含めて大半の日本人は、この事件に無関係である。直接的には何の関係性も持たないけれど、私たちは本当に無関係なのだろうかと、茫猿は問い糺したいのである。

この事件はヘイトクライム(人種、民族、宗教、性的指向などに係る特定の属性を有する個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる暴行等の犯罪行為を指す。)である。多くの人たちはヘイトクライムに加担することなどはしない。しかしながら、積極的に拒否反応を示すこともしない、多くは無関心または無関心を粧っている。人それぞれの在り様に差異が表れるのは生き物の必然である。男女差、身長差、体重差、頭髪の量、肌の色などなど、様々な差異が生じてくるのは生き物としての必然である。その結果として心のなかに何らかの差異認識が芽生えてくるのも、これまたやむを得ない必然である。

問題はそのあとである。差異認識を侮蔑や見下しなど差別に変異させてしまうか、生き物としての何処にでも存在する違いなのだと昇華させてゆくのかということである。差別し排除し、果てはヘイトクライムにまで至ってしまうか否かが問題なのである。

障害者施設や老健施設を隔離してよしとする社会の風潮、障碍者と健常者の教育環境を分離してよしとする風潮、福祉環境にいたずらに経済合理性を持ち込んでよしとする風潮、一般社会の多くの場面で認められる、それらの隔離行為は差別意識からではなく、健常者のみならず障碍者にとっても”経済的”合理性を根拠とするものが多いと承知している。しかしながら、社会福祉を考えるときに経済合理性に重きをおくことが、本当に正しいのであろうかと問うのである。

茫猿が敬愛する止揚学園では、皆が一緒にご飯を食べます。園生と職員スタッフとそして居合わせた訪問者が同じ食卓を囲み、同じ食事をいただきます。時分どきに訪問すれば必ず「ご飯をどうぞ」と誘われます。学園に手土産を持参すれば、お菓子であれ果物であれ皆で分け合っていただきます。スイカやリンゴがどんなに小さな一切れとなっても皆で分け合うのです。《それを伺ったときから、スイカは全員に渡るように数個は持参するようになりました。お届けする寒ブリは太物丸ごと一本をお届けしています。》

止揚学園は特別なのでしょうが、止揚学園のあり方が普通になってほしいと思います。どの施設も訪問者に寛容になり、金銭や物品の寄付受け入れに鷹揚であり、積極的に寄付や訪問者を受け入れてほしいと思います。

社会的弱者を支援する施設が身の回りに共存することが当り前である時代の到来を願うのです。社会的弱者が健常者の日常に溶け込んで存在する時代の到来を願うのです。ベビーカーや車椅子に暖かく優しい眼差しを届ける社会でありたいと願うのです。邪魔物扱いしたり非難批判の視線を送る者がいたとしたら、周りの皆がたしなめる世の中でありたいと願うのです。

あらためて、福祉とは「見えないものを大切にする社会」の実現なのであると考えます。そして”無財の七施”の実行なのだと考えます。見えないものとは、例えば命、例えば愛、例えば優しさ、例えば慈愛のまなざし。

「見えないものを」と云うのは、聖書コリント人への第二の手紙、第4章16節「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」よりの引用です。それは「上に立たない優しさ」や「管理しないで共に暮らす仲間でありたい」という考えにつながるものです。
元鑑定協会会長・緒方瑞穂氏によれば、同じようなことをサン・テグジュペリの「星の王子様」が言っているのだそうです。
『on ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux..』(原文)
「心でしか見えないものがある。本質は目に見えない。」(原訳)
「本当に大切なものは目に見えないんだよ」(意訳)

「無財の七施」とは雑宝蔵経に説かれる教えです。
1.眼施(げんせ):やさしい眼差(まなざ)しで人に接する。
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ):にこやかな顔で接する。
3.言辞施(ごんじせ):やさしい言葉で接する。
4.身施(しんせ):自分の身体でできることを奉仕する。
5.心施(しんせ):他のために心をくばる。
6.床座施(しょうざせ):席や場所を譲る。
7.房舎施(ぼうじゃせ):来訪者をもてなす。

無一物であろうと、誰にでもできることであり、そのことで人にいたわりややすらぎを感じてもらうことができる七施です。優しい眼差しを送り、笑顔で接し、優しい言葉をかけ、手を差し伸べ、思いやり、席を譲り、訪れる人に優しい。そんな七施は施される人はもとより、施す人に暖かい和みをもたらしてくれるのです。

《睡蓮の瓶ではホテイアオイが花を咲かせました。》20160801hoteiaoi

 

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相模原事件-2 への2件のフィードバック

  1. 緒方瑞穂 のコメント:

    残暑お見舞い申し上げます。
    ご無沙汰しています。久しぶりに「鄙からの発信」を拝読いたしました。
    津久井やまゆり園の事件は胸が痛みます。私の地元神奈川県では、いまでも毎日のようにやまゆり園のニュースが報道されます。副大臣が視察に来た、建て替えか改修か検討、残された入園者の声...等々。地元民に与えた心の傷は大きいです。
    やまゆり園でも、見えないものを大切にする職員がいるはずです。安全な再開を心待ちにしている家族も多いのですが、職員のトラウマ対策が行われているようです。

    本日、止揚学園へ夏の寄付を振り込みました。

  2. Nobuo Morishima のコメント:

    拝復 残暑お見舞い申し上げます。
    お久しぶりです。ご清祥にお過ごしのことと存じます。
    私はあいも変わらず晴耕雨読の日々と申し上げたいところですが、右目の不自由度が増したせいか、雨読とは名ばかりとなっています。
    何がしかの社会貢献になればと、固定資産評価審査委員をしばらく前から務めています。今程、会議を終えて帰宅したところです。行政の立場、申立人の言い分、そして不動産鑑定士としての委員のあり方、それぞれにとって最善の落とし処を探る会議が続きます。
    追伸 止揚学園への変わらぬ御支援、有り難うございます。

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