原爆忌そしてポケモンGO

昨日の記事で、立秋前後は季節の移ろいに感傷的になる時季だと書きましたが、感傷的にならざるを得ない”おおもと”を書き落としていました。日付が変わった深夜の今、思い返すと、忘れていたわけに思い当たります。それは先月半ばより三歳半ばになった幼児と生まれて三月目に入った乳児が鄙里に滞在しており、泣き声やら笑い声やら叫び声が日頃は閑かな我が家にこだましているせいのようです。記事を掲載する前にも、乳児を抱いて夕風を楽しんでいたから、立秋の前に巡り来る八月六日を忘れていたようです。

毎年々々書き連ねていることですが、八月が巡り来れば、忘れてはならない数字が、6と9と15です。
・8月6日は、広島の原爆忌
・8月9日は、長崎の原爆忌
・8月15日は敗戦慰霊の日(終戦記念日という言い換えはあえて避けます。8月15日は無条件降伏した日付なのです。)
八月ではありませんが、沖縄戦終決の日とされるのは六月の二十三日です。

八月十五日はお盆です。 私にとってのお盆は、八月の盆であり、新暦七月の盆はいっこうに馴染めません。 お盆は亡き人々を思い出す日ですが、亡き人々への思いも、澱のごとく積み重なる日々の由無しごとのよどみの中に埋もれてゆきます。

亡き人々を思い起こすことが日々少なくなってゆくのは如何ともし難く、然れども、であるが故にこそ救われているとも思います。中村が亡くなって一年余が過ぎ、村北の四年忌、父母の七年忌、弟の九年忌、古田大兄の十一年忌、田辺大兄の十七年忌、師匠・新居作介が亡くなってから既に37年が過ぎました。他にも叔父叔母従兄弟、数多の友人知人などなど亡き人々を偲ぶ時です。

中村君が亡くなったときに、松田君がこうも言った。
「それにしてもあの世にいる肉親、親戚、友人、知人の人数がこの世にいるその人たちと変わらなくなって来ました。また冥土で先に行った人達と楽しく過ごせるなら、そのうち行くのも悪くないと思っています。」

懐かしくも会いたくも思える人が、此岸よりも彼岸に多くなったと感じるのは、八月に入るとともに陰影が濃くなった木立の陰から聞こえてくる蝉の声のせいだけではなさそうである。かさね来た我が齢(よわい)のなせるわざなのでしょう。

然は然り乍ら、お盆というものが、息子夫婦が孫娘を連れて帰省してくるのを待つ日となってはや三年、今年は孫の数も増え盆前から鄙里を賑わせてくれています。庭の樹立ちを苅り揃え、仮設プールを設えて迎えられるのも、私がまだ此岸に居るからであり、此岸に居ればこそ、日々の暮らしが澱のごときものを積み重ねてゆくのも避けられないことです。

昨年2016年3月12日に忘れぬ日付という記事を掲載している。いずれの日付も自らが被災を体験したわけではないが、現地に足を運び私なりの追体験をしたことで今に連なる日付となっている。その記事の一部を再掲しつつ今の思いを記してみるのである。

1945.06.23 沖縄慰霊の日
太平洋戦争における沖縄戦と云うものがどのように位置づけられていたかを考える日である。普天間基地の辺野古移転問題が起きてからは、明治政府による1879年の琉球処分、そして沖縄を米軍施政下に置き去りにしたままで、講和条約を締結し主権を回復した日本という国の”在り様”を考える日でもある。

1945.08.06 広島原爆忌
原爆ドームをはじめ平和記念資料館などを、高校の修学旅行で初めて訪れて以来、数度訪ねている。福島の原発事故が起きてからは、被爆国日本において原発を稼動させることの意味を考えさせる日でもある。

1945.08.09 長崎原爆忌
平和祈念像、浦上天主堂、原爆資料館などを訪ねている。長崎だけは一度しか訪れたことがない。《広島も長崎も市電が今も稼動している街である。長崎を再訪したいことの多くは、市電の乗車体験をしたいのであるが、年々叶わぬこととなりつつある。》

1995.01.17 阪神淡路大震災の日
発災の年の三月半ば頃、震災後間もない神戸で独り暮らしを始める長男の引越荷物を運んで、瓦礫が積み重なり異様な匂いの漂う早朝の神戸の町へ入って以来何度も訪ねました。学生時代に何度も訪れた神戸の町が無惨に変わっているさまを眺めて以来、行く度に復興してゆくさまと、それでも随処に残る傷跡を眺めたものです。東日本大震災が起きてからは、阪神間と云う都市圏域における震災と過疎化高齢化の進む東北沿岸地域における震災の違いを考える日となっている。

2011.03.11 東日本大震災の日
発災後一ヶ月余を経過した2011. 04.25 に岩手県釜石市、大槌町を訪ねました。その後も気仙沼市、いわき市、仙台市若林区などを訪ねました。 2008年秋に気仙沼で一泊したから、その時の穏やかな気仙沼が被災後にすさまじく変貌した様子は今も記憶している。

今の私にとっては、原発にどう向き合えばよいのかを考える日である。過疎地に原子力発電所を立地させ都市圏域に電力を送電供給する構造の背景、電力供給の経済性と云う短いスパンの経済効率性と放射能半減期まで何万年と云う長い期間を要する原発廃棄物処理問題、そして想定外としていた過酷事故処理や廃炉処理問題などを考える日となっている。過疎地に原発を立地させて資金投下する構造は、沖縄に米軍基地を集中立地させる構造とどこか似ているとも考えるのである。

この五つの日付はいずれも記念日ではない。
当事者にとっては当たり前のこと、縁薄き者にとっても慰霊の日であり祈念の日であると思う。 そして、今現在のおのれの生き方を振り返る日でなければと考えている。お盆と云う季節は此岸と彼岸に”思い出”という橋を架けて、亡き人々を我が心のうちによみがえらせる日なのであろうと考えている。甦らせることにより、日々澱のごとくかさねている我が暮らしを思い返す日なのであろうと考えている。20160806pool

原爆忌と云えばこんなネット記事がある。「広島平和記念公園の平和利用をめぐる争い、ポケモンGOの世界を焼け野原にして終焉」 どういうことかと云えば。

広島平和記念公園は鎮魂と慰霊の場所だから、関係自治体がポケストップの削除を申請し受理される。そこで、平和公園はポケモン空白地域となった。これをポケモンGO焼け野原と表現する。

これについて、「どこかの自治体がポケモンをフル活用し町おこしに大成功。」 それを見た各自治体、「手のひら返しでポケモンを使おうとするが、過去の削除申請から相手にされない。」などと揶揄している。

興味深い書込みはこうである。「ポケモンGOは壮大な踏み絵で、新しすぎる概念が出たときに、その人間が否定から入るか、利用しようとするか、分析するか、改善しようとするかが可視化された。」 さもありなん。

忘れぬ日付からポケモン騒動まで、散漫と云えばこれ以上散漫にはならないであろう記事となりましたが、それもこれも此岸と彼岸の違い有ればこそなのです。彼岸は此岸に居る者の思いに連れて変わってゆくとは云え、基本固定的である。此岸は生きている者の世界であり、まさに日々の澱《おり》の積み重ねで変わりゆくのである。ゆく川の流れは絶えずして、よどみに浮かぶ泡沫は久しくとどまりたるためしなしなのである。

 

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