リーダイ・千夜千冊

昔々、リーダースダイジェストと云う本を読んでいたことがある。小学校後半の頃だったと思う。何度か手にしたかすかな記憶があるが、草深い田舎のことだから書店が近くにあった訳でもないし、定期購読できるほどに小遣いが潤沢であったわけでもない。たぶん父が偶々買ってきた本を拾い読みしたということであろう。記憶するリーダースダイジェスト《リーダイ》は刊行本の要約や他誌の記事を転載する雑誌だった。

博覧強記の松岡正剛氏が著すiNet・Site ”千夜千冊”を今様リーダイであると評しては失礼だろう。千夜千冊は書読みの羅針盤であり、手ほどきであり索引であると思っている。なによりも彼が選ぶ書籍とその書評が茫猿の感性を揺さぶるのである。

千夜千冊は2000年02月23日《茫猿56歳と二日目》に第一冊が始まっている。第一冊に取り上げられたのは、「中谷宇吉郎著:雪」である。その冒頭を松岡正剛氏は次のように記している。

床屋に行ったあとに頭をスウスウさせながら書店の片隅で岩波新書の新刊を手にとり、高校生だからさんざん迷ったすえにやっと一冊を手にするくらいなのだが、それでもその一冊を紙の爆弾のようにもち抱えて部屋に戻ってページを開くまでの出会いの緊張というものは、いまでも思い出せるほどにどぎまぎするものだった。

松岡正剛氏は1944年01月25日生まれである。茫猿より26日早く此の世に生を享けている先輩であるが、ほぼ同時代を生きてきた方でもある。京都や東京で思春期を過ごした松岡氏と異なり、草深い鄙に過ごした茫猿が新刊書を手に入れる緊張感を味わった記憶は乏しい。乏しいが、とてもよく判るのである。図書館(室)で一時間も2時間も渉猟した挙げ句に一冊を借り入れ、家に持帰って早速に読み耽り、読み終えたら日付が変わっていたなどという経験を何度もした記憶がある。

《学校の図書室書架の隅に、どういうわけか”金瓶梅”があった。借り出して読み終えたのであるが、返却する際に担当教師に渋い顔をされたような記憶がある。貸出し書架においてあったのだから、注意することもならず、ただ渋い顔をしただけなのだろう。その後はどうなったか記憶がオボロだけれど、書架からは消えたように記憶する。長閑な時代だったのだ。》

さて1624夜を迎えた千夜千冊であるが、千夜千冊は「分理篇」「生代篇」「思構篇」「交貨篇」「意表篇」「歴象篇」「世走篇」「読相篇」 「連関篇」「番外篇」の10篇のシリーズに分類される。「分理篇」以下各篇の分類のテーマは次のとおりである。引用が長くなるので、詳しくはリンク先をお読み頂きたい。

「分理篇」 人間はなぜ軌道幻想、模型幻想を持っているのか
「生代篇」 生命というシステムの何が鍵と鍵穴だったのか
「思構篇」 外部を明晰する西欧思想、内部に包摂する東洋思想
「交貨篇」 資本と労働の表裏関係、市場とメディアの両面性
「意表篇」 文芸と物語の文草界、数寄と意匠の創芸界
「歴象篇」 記憶と記録の想起はいかなるフィギュールを呼び覚ますのか
「世走篇」 アヴァンポップな人の世と文明文化のモダンズと
「読相篇」  潜読、感読、顕読、耽読、系読、共読で「本」の相をまたぐ
「連関篇」 多読するリスク・資本・グローバリズム
「番外篇」 あの3.11から、私たちが問いかけつづけているもの

千夜千冊は、洋の古今東西にわたり松岡正剛氏が選び薦める様々な書物について、その概要であり、その読後感想であり書評なのである。千夜千冊だけで、その紹介する書籍を読んだ気分になるのは好ましいことではなかろう。しかしながら千夜千冊を読んでそれら書籍の存在を知り、その概要と占める位置を知ることはリベラルアーツなのだと考える。

千夜千冊の総てを語るのが本稿ではない、面白さを語りたいのである。例えば1482夜「偶然の科学」(分理篇)における一節である。

ネットワークとは、リンクによって互いに結びつけられたノードの集まりのことである。 複雑なネットワークではこのリンクとノードの関係が見かけ上、あるいは想像上はかなり複雑になっている。 ところがそれを、あるグラフ理論を用いて次数分布をとると、ノード数の増加と「つなぎ」とのあいだには独特の関係があることがわかってくる。また、ネットワークの「つなぎ」のどこかに高次数のハブ(hub)があることが発見できる。《筆者注:ノードとは結節点、交点のこと。》

例えば、1545夜「もし、日本という国がなかったら」(世走篇)における一節である。

日本を一つの日本や一つの民族の記憶と記録で語れるわけがない。ぼくも『日本流』『日本数寄』(ちくま学芸文庫)にさんざん綴っておいたように、日本は縄文弥生のはなっから「一途で多様」なJAPANSなのだ。天皇と幕府は並列していたし、その美意識も「あはれ」であって「あっぱれ」なのだ。少なくとも、網野善彦(87夜)がせめてアイヌ・東国・西国・琉球の4つの地域史で日本を語らないと話にならないと言っていた通りなのだ。《筆者注:単一民族日本などという誤った巷説が、どれだけ日本を毒してきたか、今も毒しているか考えるまでもないことである。》

例えば、1624夜「南方熊楠全集」(思構篇)における一節である。

近代科学は物不思議に中心をおいて理不思議に到達しようとした。まさにデカルトやニュートンがこれを成し遂げた。しかし、こんなことだけでいいものか。むしろ事不思議と心不思議とを重ねて理不思議に至ることこそ、試みられるべきことなのではないか。クマグスはそう実感してきた。それにはいったん思索の遠近を断つ萃点に入って、また出てくる必要がある。それを繰り返すべきである。クマグスは達観して、このことを「心物両界連関作用」というふうに見た。《筆者注:西欧が”物”と”理”であるとすれば、東洋は”心”と”事”であるとも読める。》

千夜千冊が紹介する書籍を読破することなど夢のまた夢である。懐具合のことは図書館を利用するとしても、衰えた右目が読書に多くの時間を割くことを許さない。熊楠全集などはとんでもない幻ごとである。先週届いた新刊書も熟読していると云えば聞こえが佳いが、まだ1/4にも至っていない。1624夜に至った千夜千冊ですら、200夜も読み終えたであろうか。

気を惹いた本があれば、千夜千冊はどう評しているか読んでみるのである。好意的であれば楽しく、書評が我が意にそえば嬉しくなるのである。先週購入した「枕草子・方丈記・徒然草:現代語訳」を手にしてからは、千夜千冊が「枕草子」、「方丈記」、「徒然草」をどう評しているか、読んでみるのである。とにかく博覧強記、現代の知の巨人・松岡正剛なのである。20161130shilakawa2

終わりに、「漢字学の巨人・白川静」について、千夜千冊が記す一節を引用する。

日本にはなぜ文字が生まれなかったのかということだ。この問題を解いた者はまだ誰もいなかった。しかし、一人、白川さんだけが解答を出したのだ。
白川さんの解答は、日本には「神聖をあきらかにしようとした王」がいなかったというものだ。統一王も、統一をめざした王もいなかったのである。まして、神聖者との応答を解読し、それを表記したいとも思わなかったのだ。
この解答を聞いて愕然とする者がいるなら、まだ日本は脈がある。しかし、これまで白川学を読んできた人々にさえ、このことは話題になっていなかった。すでに白川ブームすら漂白されつつあるのかとおもうと、そのことのほうに、愕然とする。

《追記》松岡正剛の日刊セイゴオ「ひび」 11月27日 より
【日刊セイゴオ「ひび」】生きざま26。肺癌になった。生きざまを削ぐか、深めるか、託すか。どうやらこの三つを同時におこせる納得が必要だ。シオラン、維摩居士、ポオ、半泥子、かつ荷風? 《12/01の投函では近く手術とある。早いご快復を祈ります。》

《追記》1625夜・井上麻矢(井上ひさし:三女)「夜中の電話」(12月10日)
松岡正剛が入院手術を前にして、千夜千冊1625夜を更新している。井上ひさしの三女麻矢著「夜中の電話」である。肺癌告知を受けている自身の病状にもふれながら、72歳の覚悟が伝わってくる。

数時間もすれば、白秋73切符で旅に発つ。長く病臥する畏友を見舞う旅でもある。旅発つ前に、この最新更新を読むことができた。

 

 

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