絵葉書と切手

茫猿は到来物の御礼、世話になった御礼、御馳走になった御礼には絵葉書を使う、電話やMailは使わない。電話は留守だと再度の架電を忘れてそのままになる場合がある。Mailは埋没して見過ごされることがある。だからアナログ的な手書き文書で礼を伝えるのだが、封書では仰々しいことが多いし、普通葉書では多く書かなければ余白が目立つ、この点絵葉書であれば書くスペースが限られているから要点だけを書くことで事足りる。 例えば、「先日は心遣いを有り難う」とか、「御馳走さま美味しかった」で済むのである。

そのぶん、絵葉書には気を使う、旅先や訪れた美術展などで買い求めて保存してある絵葉書のなかから、伝える内容や相手に応じて選ぶのである。切手は折々に買い求めた記念切手などを貼る。絵葉書は時に52円切手では料金不足になる場合があるから、常に82円切手を貼るのである。

先日旅してきた長崎路面電車車庫でも鹿児島市電交通局でも絵葉書を求めてきた。長崎は写真葉書であるが、鹿児島はイラスト葉書で風情がある。合わせて十数枚を求めてきたから、当分のあいだ絵葉書の在庫に不自由はしない。20161221sidenhagaki

手許に常に絵葉書を記念切手などを用意しておけば、すぐに走り書きして投函できるのである。Mailや携帯電話などデジタル全盛の時代であればこそ、旧態依然たるアナログスタイルが際立つだろうと云う、いささか姑息な考えも秘めていることを否定はしない。

暮れがせまってきて年賀状を書き始めているが、賀状の通信面は若い頃から業者印刷に廻したことはない。現役の頃でも自分で文面やイラストなどを考えてオリジナル賀状を作っていた。昨年からは宛名書きも悪筆を厭わずに手書きしている。

三十年以上前になるが、ロータリークラブに入会したての頃に達筆で皆が尊敬する大先輩から「君の賀状は好いね」と褒められたことがある。悪筆で申し訳ございませんと恐縮したら、「君の賀状の宛名は手書きだよ、代筆などでなく自らの手書きだよ、それが好いのだよ」と言われた。それ以来、悪筆、拙筆をものともしていないのである。

今や退隠した身である。賀状などどうでもよいと思わないでもないけれど、生きていますという証しであろうし、かすかに社会につながっている縁《よすが》でもあろうと思えば、暮れ近くなればそれなりの枚数を買い求める我が身が何やら可笑しくもある。

忙しい現代人は携帯電話の画面などろくに見ていない。スクロールが早すぎて飛ばしてしまうことだって多いだろう。長い文章も読まない。自らの発信だって誤字脱字意味不明である。タイピング即発信だろうから、読み返しも推敲も無しであろう。

しばらく前のFBにこんな投稿があった。某氏がこんなスマホメールを受け取ったというのである。「兇銃に變身してください、添付諡凌」、意とするところは「今日中に返信を下さい、添付資料あり。」であろう。タイピング即発信の結果であろう。これは日頃発信子が、予測変換上位に兇銃や諡凌をおいているからであろう。お里が知れると云うものである。ここまで酷ければ笑い種になるが、誤変換メールや脱字メールを受信することも結構な数である。他山の石として心したいものである。

「鄙からの発信」を更新する都度、記事の内容によってはTwitterやFaceBookに写真を添えて告知(リンクを表示)しているが、リンク先即ち「鄙からの発信」にまで立ち寄った形跡はほとんど見られない。逆の立場になって《SNSを携帯発信することはあっても、携帯で閲覧することは殆ど無いけれど》、リンク先まで辿るだろうかと問われれば否である。そんな面倒なことをする訳が無い。それでもTwitterやFaceBookにリンク投函するのは、少ないだろうけどデスクトップでアクセスする人のことを考えてのことである。

デジタルの世界はインターネット検索・閲覧であれ、SNSであれ、速さと手軽さが売りなのであり、それが偽情報や煽り情報の氾濫も招いている。米国大統領選挙においてもガセネタの氾濫が話題になったし、最近でもアフィリエイトサイト《広告収入を目的とするサイト》における医療情報の危うさが話題になった。真贋取り混ぜてというよりも贋だらけという状況なのである。

そんなデジタル世界の危うさを思えば、デジタルデバイトと同様にアナログデバイトも無視できないなと思うのである。そして両者の根底にあるものはリベラルアーツの裾野の広さと深さなのであろうと思っている。

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