始まりと終わり

先号で「とっくの昔に旬を過ぎたサイトが今更なにをという思いが離れない。老いた「鄙からの発信」はフェードアウトするに如かずと決めてからでも既に数年余りが過ぎている。」と記したら、読んでますとか楽しみにしていますなどというメッセージが幾つか届いた。サイト訪問者数は少なくなっていても、まだ読まれているのだと知らされれば嬉しいし心強いことである。

この頃は「始まりと終わり」に興味がある。始まりと終わりの一つは宇宙である。もう一つは誰にでもある生と死である。何日か前の深夜にNHK:BSで「コズミック フロント「村山斉の宇宙をめぐる大冒険 宇宙に終わりは?」を見ていた。引き続いて、「ヒッグス粒子」の発見までの舞台裏を追ったドキュメンタリー映画「パーティクル・フィーバー」を見た。内容のほとんどを詳しく理解できないけれど、壮大な物語であることだけは判るのである。

宇宙は138億年前のビッグバンに始まると云うのが定説である。それ以前については判らない。国立天文台の「宇宙図」以下のように解説するが、5〜11の次元だとか”ひも理論”など何のことやら判らない。でも今 我々の生存する宇宙が三次元空間と時間という次元から構成されているということだけは辛うじて理解できる。たった今自覚している《確認している》存在空間、つまり三次元空間は時間という次元の経過とともに消え去っているということのようである。瞬間また瞬間の遷移は実感できないけれど、一年前なら実感できるし百年前、千年前であれば理解できるのである。今は今にしかあらず瞬時前とは様相を異にするのであり、ある種異次元なのだとも云えるのであろう。

宇宙の始まりについて、ある説では、宇宙は「無」から生まれたとしています。「無」とは、物質も空間も、時間さえもない状態。しかしそこでは、ごく小さ な宇宙が生まれては消えており、そのひとつが何らかの原因で消えずに成長したのが、私たちの宇宙だというのです。また生まれたての宇宙では、時間や空間 の次元の数も、いまとは違っていた可能性があります。ある説によれば、宇宙は最初は11次元で、やがて余分な次元が小さくなり、空間の3次元と時間の1次 元だけが残ったのだといいます。

この我々が存在し理解でき得る宇宙というものが、たった一つではなく無数に存在している《生まれては消えている》可能性があり、今の宇宙が生まれ現在に至っている大きな要因の一つにダークマターとダークエネルギーの存在が大きいという。ダークマターが多ければ宇宙や銀河は生まれても大きすぎるダークマターの重力でつぶれてしまう。ダークエネルギーが多ければ、大き過ぎれるダークエネルギーによって宇宙は拡散し破壊されてしまうというのである。《多くはダークを暗黒と訳すけれど、未知あるいは無明のほうがそぐわしい。》

138億年前のビッグバンから始まった現宇宙は、それが総てではない。光学望遠鏡にしても電波望遠鏡にしても、観測している宇宙の範囲は138億光年の距離に限られているのであり、その外側は推理《想像》しても観測することはできないと宇宙図は教えてくれるけれど、理解することは難しい。20170218utyuu

宇宙が誕生して92億年後に、太陽と太陽系が生まれた。地球の推定年齢は46億年という。46億年前に誕生した太陽系は無限ではない。水素の核融合反応をエネルギーとする太陽はエネルギが尽きる時に消滅し、地球も時を同じくして消滅する。太陽の寿命は残り50億年とも云うが、太陽の膨張はそれよりも早く始まるというから地球の寿命はもっと短いのであろう。

とはいっても、地球が誕生して46億年、その後に海が生まれ、酸素が満たされ、大陸が生まれた。哺乳類が生まれたのはずっと後のことであり、現世人類が誕生したのは200万年くらい前のことであり、考古学も含めて歴史として認識できる人類史は一万年にも満たないのである。一世代が五十年とすればたかだか二百世代前のことである。

宇宙の歴史と比べれば1/1,380,000であり、地球の歴史でいえば1/460,000の長さにしか過ぎない。元旦に宇宙が始まったとすれば、人類史などは大晦日のカウントダウンが始まる頃にしか過ぎない。

宇宙の歴史や広がりなどというものは、仏典が説いている、恒河沙(ごうがしゃ:10の52乗)、阿僧祇(あそうぎ:10の56乗)、那由他(なゆた:10の60乗)の世界であり、十方微塵世界であり、不可思議、無量大数の世界なのである。

であれば人が生まれ死んでゆくことなど、微塵のことであり取るに足らぬことであろうが、人体は小宇宙であるとも云われる。心は脳内世界のことだと云うけれど、脳は脳のみにて存在するにあらず、心臓はもちろんのこと胃腸や足裏との相互・相乗作用において脳は存在し機能していると最新科学は教える。

人は生まれた瞬間から変異しており、人体を構成する細胞は刻々と生まれ死んでいるというから、今日の私は昨日の私ではない。人の身体は日々生まれ日々死んでいるのであり、人もまたDNAに繋がれながら空間に存在し時間を旅しているのであろう。無限から微塵まで思い患うのも人であれば、今日の糧に悩むのも人なのであり、だからこそ面白いのであろう。

《蛇足》冬であれば朝六時に夏であれば朝五時に床を出て、朝食の味噌汁をつくるのが日課である。日課の味噌汁ではあるが、一日として同じ味噌汁を作ることは無い。出汁に用意してある煎って粉砕した煮干しと昆布の目分量が同じことは無い。稀には前夜の鍋材料の残りである白身魚や牡蠣で出汁をとることもある。味噌にしても、用意してある豆味噌《赤味噌》と麦味噌《黄味噌》に加えて、時には白味噌や酒粕も加えるが、この配合比が目分量かつその日の気分で配合比を変えている。20170218hukinotoh

具にしたところで、季節ごとに変わっている。この時期はジャガ芋、サツマ芋、里芋、大根、蕪、ニンジン、大根葉、白菜、葱などを適当に選んで用いている。菜花、キヌサヤ、莢隠元、茄子、胡瓜、南瓜が加わる時期もある。稀には抜き菜、油揚、刻み納豆の時もある。それに葉山椒、刻み柚子や黒七味が加われば、三六五日・三百六十五種類の味噌汁が食卓にのぼる。一日として同じ味噌汁は無く、これも転変きわまりなく日々新たなのである。些事である。些事ではあるがこれとても有為転変する小宇宙なのである。畑の一隅に蕗の薹初物を見つけたから、明日の味噌汁はこれにて決まりである。

 

 

 

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