終わりの始まり

本日は73回目の誕生日である。特段の感慨もなければ出来事も無い73回目である。先号記事にちなんでいえば、また一つ終わりが始まる日であるし”冥土の一里塚”でもある。FaceB00kに誕生日を公開していないから、数日前に配達された保険会社の祝い葉書を除けばメッセージ一つ届かない。それなりに華やぎのあった頃の二月は、14日にチョコレートも届いたし一週間後にはメーセージや多少のお祝いもあったことを思えば《大袈裟だけど》隔世の感がある。

それでも73歳になった。73歳に”も”なったと思っている。昨年は六巡目の巡りきたる申歳などと記事にしたが、それ以前にFaceB00kで誕生日を記事にすることはなかった。今朝、目覚めて憶うのは、かつて73歳の我が身など思うことも無かった。当然に迎えるだろうとも思っていなかったが、来ないかもとも思っていなかった、何の意識もしていなかったということである。つくづくと、73は73でなければ、73にならなければ判りはしないのだと思い至っている。

73歳と云えば26,660日余である。宇宙誕生以来の138億年とは比べ物にならないが、それでも長い日々である。数字にしてしまえば無機質であるが、我が身独りの二万七千日弱と思えば、また異なった響きもある。

それでも、まあまあ元気に73歳を迎えている。数年前ほどではないにしても野良仕事もこなしているし、日常生活もこの歳なりの社会生活も過ごしている。畑や雑木林に出ていれば、いつまで続けられるだろうかと思わぬ訳ではないが、まだ暫くは無難に過ごせそうだと《甘いのだろうが》思っている。 🎁  🎂  🍰

月末には友の墓参りに行こうと考えている。彼が逝ってからもうすぐ二年である。忌日が近くなれば観光シーズンで宿も街も混み合うだろうから、まだ閑かなうちに咲き揃っているだろう梅のしたで彼と語らってこようと考えている。

過日のTVドラマで、こんなモノローグがあった。「死んだ奴は強いよ。アイツはそこで時間を止めている。」 たしか、こんな台詞だった。死んだ奴には勝てない、変わりようの無い奴には勝てない。懐かしさも、悔しさも、心残りも、なにもかもが我が身独りの思い込みでしかない。いわば究極の独り相撲だ。

《話は変わって、しばらく前から下書きに残しているメモ数片である。》
Fake《偽》、(Alternative:代替)Fact《事実》、True《真実》
これらは最近話題になっている言葉である。ネットではFake Newsの横行が話題となり、米国トランプ政権の記者会見では「Alternative Fact《もう一つの事実》」という表現が話題となった。国会では戦闘を武力衝突と言い換える防衛大臣答弁があった。

事実、事象の捉え方は多様であり、視る立ち位置や角度でFACTの在り様は変わってくるということがらである。そしてTRUEは神のみぞ知ると話者は結ぶのであろう。別の表現をすれば、TrueやJustice《正義》ですら、多様で多面的であるとも云える。正義は立場で変わり、其々の立場に其々の正義は存在するとも云える。それにしてもイスラム教であれキリスト教であれ一神教信者の原理主義的思い込みは激しいものだと思わされる。

フェイクニュースがネットを席巻しているという話であるが、フェイクニュースがこれほどにiNetをなぜ席巻するのかと考えれば、その多くはiNetを構築しているアルゴリズムが生み出す偽情報なのだろうと思う。

ロシアが米国大統領選挙に介入したというのも、直接介入ではなく間接介入であれば十分に可能な話であろうと思う。偽情報を流し、それに飛びついた人たちが拡散する。拡散すればするほどにニュース表示順位・構成アルゴリズムは偽情報を上位に表示し、それがまた拡散を呼ぶこととなるのであろう。iNetのアルゴリズムに引きずり回される愚かさとでも云えようか。

インターネットに徘徊するニュースや情報というものが広告媒体と結び付き、そのつなぎ目を構成しているアルゴリズムに惑わされている愚かさとも云えるのであろう。この一週間ほどテレビを賑わせている「金正男暗殺事件」にしても、コメンテーターたちが真贋取り混ぜてしたり顔で語っている。正男の心情も正恩の心情もうかがい知れないことであろうに。

《事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている》
稲田防衛大臣の国会答弁である。これは「敗退」を「転進」と言い換えた旧日本軍大本営発表と同じことではないか。しかも破棄することなど有り得ない「現地派遣部隊からの日報:すなわち最も大切な原始記録」を破棄していたという防衛省内上申を鵜呑みにしていたというお粗末さである。これも一つの「Fake《偽》、(Alternative:代替)Fact《事実》、True《真実》」である。

ETV特集・ギリヤーク尼ヶ崎
ギリヤーク尼ヶ崎さんの踊りは彼の業(ゴウ)だと思うが、TV画面を通して見ても凄いものである。母さんと弟に恵まれて、仲間に恵まれて、好きなことやって好きにやっていながらロマンだと嘯けるタクマシサと純粋さ。秩序の側から見れば暗黒世界からやってきたような不思議さと理解などを超えた破天荒さだけれども、なにやら好いものを見た。85歳の老芸人が母の写真を胸に抱き、後二年踊れば踊り続けて五十年だから、それまで応援して下さいと祈る姿は鬼気迫る。

《一段落を迎える”ブログサイト:農家の嫁の事件簿”》
長く愛読してきた”農家の嫁の事件簿”が一つの区切りを迎えるという。背景に何があったのか、何かの心境の変化なのか判らない。でも一つの区切りを意識されたのであろう。「鄙からの発信」は”旬の終わり”を意識しているが、”農家の嫁”さんも何かを意識されているのであろう。

ふと気になって「hayakarの日記」を開いてみたら、2010/12/24の最終更新のままにサイトは今も残されていた。hayakar:早川義春氏はこの最終更新のあと半年ほどしてお亡くなりになっているが、サイトは今も残されていて、彼の妄想上の一人娘”秀子”さんはネット上に健在なのである。なにやら嬉しくて2006年までさかのぼって秀子さんを眺めてしまった。

※hayakar氏について
恐山・死者・生者  投稿日: 夏の庭 投稿日:

2016/02/21のマンサクはこんなだった。2016.02.21mansak

庭先では福寿草が開花していた。今朝は小雪が舞っていた。春は名のみの風の寒さだが、それでも春はやってきている。20170221hukujusou

 

関連の記事


カテゴリー: 只管打座の日々, 茫猿残日録 タグ: パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください