最果てと心奥

2017年も残り二日、人の世が定めたかりそめの区切りに過ぎない年の暮れだが、それでも何やら気忙しくもあり、また名残惜しくもある。そんな暮であればこその話題を二つ。一つは果てしない宇宙のその最果てについて、もう一つはミクロの心の奥底について。

畑と雑木林から、松、梅、熊笹、万年青、葉牡丹、南天、千両、水仙、菊などを採り揃えてくれば、家人が墓と仏壇と床の間に年越し飾りを設えた。雑木林を歩きながら空を見上げ、宇宙に果てがあるのか、そもそも宇宙の広さと歴史つまり空間と時間とはどのようなものなのかと取り留めないことを考える。

この宇宙が生まれてから138億年が過ぎたとされている。《他にも無数の宇宙が存在すると云う仮説もあることから、あえてこの宇宙という》 太陽系に地球が生まれてから48億年、地球が全球凍結したのち温暖化し現存する生命の祖先が誕生してから6億年、地表に繁栄した恐竜が絶滅してからでも6千万年である。

恐竜の存在とその古さは、博物館にゆけばおぼろげながらも肌感覚として理解可能であるが、宇宙の時間の経過については理屈の存在は解ろうとしても実感は得られない。ましてや138億年前に生じたとされるビッグバン(宇宙大爆発)もそれ以前も理解の外である。

ビッグバンで宇宙(この世)に空間と時間が生まれたのだと聞かされても、つまりビッグバン以前には空間も時間も存在しなかったと聞かされても、理解の外のことである。

宇宙経過時間は138億年、宇宙空間は138億光年のかなたに広がると云う。138億年以前のことは判らないし、138億光年(300,000(m/s) ×138億年)より先に宇宙の果てがあるのか否か、果てがあるとしてそれは何かも判らないのである。光学望遠鏡はもちろん電波望遠鏡にしても過去しか見えないし聞こえないからである。

いずれにしても、恒河沙(ごうがしゃ)阿僧祇(あそうぎ)那由他(なゆた)不可思議(ふかしぎ)そして無量大数、無辺光の世界であり、仏典の世界にも通じることである。「国立天文台  宇宙図2013」を眺めながら、観念の遊戯とも思える世界に心を遊ばせてみれば、行く年も来る年も何ほどのこともなく思えてくる。

400万年前に古生人類(猿人)がアフリカに生まれ、現生人類ホモ・サピエンスが誕生したのはたかだか数万年前のことである。考古学的生命体としての人類の歴史など、宇宙の経過時間からすれば1/100,000程度の時間に過ぎない。一年に例えれば、正月に宇宙が生まれ、除夜の鐘がなり終える頃(1/60分×24時間×365日=1/525,600分)のことである。

であれば瞬時ともいえる茫猿の人生など何ほどのこともあろうかと思えるし、この世のあれやこれやも瑣末ごとに思えてくる。とはいえニヒリズムに閉じこもるのではない。鄙里の歳末風景のなかに自らの心とやらを解き放っていたいと思うのである。

瑣末に囚われていたくないと思えば、穏やかな風景のなかで墨をする書家と白石加代子の語りに心を遊ばせる「書にきく禅語」が楽しいのである。138億年前のビッグバンで生まれた一つ一つのいのち、一つ一つの人生は、それだけで尊く揺るぎない。静寂で不動の世界「寂然不動:静かで絶対的な沈黙の世界」を味わったら、さあ、日常の世界に動きだそうと、「書にきく禅語」は諭してくれる。

窓の外、江川には見慣れぬ水鳥がやって来ている。バンなのかクロガモなのかと図鑑を見たけれど、確かには判らない。畑にはアオサギが歩いていた。鄙里では茫猿と鳥たちとの距離がまた一つ縮まったようである。鳥が茫猿に近寄って来たのか、茫猿の暮らしぶりが野生鳥に近ずいたのか。

 

 

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