悼 武田正雄様

REA-7の畏友 武田正雄氏が亡くなった。享年確か76歳である。《茫猿より2歳年長の1942年生まれと記憶する》彼と初めて出会ったのは、1971年 東京での不動産鑑定士三次試験実務修習の第七期同期生の集まりでした。 以来、ほぼ半世紀に亘って変わらぬお付き合いを頂いた友情に深く感謝し、悼辞を捧げるものである。
※ REA-7:Real Estate Appraiser 7・実務修習七期 の有志の集まり

2018/03/02 京都駅前メルパルクにて清水教授の講義を伺っていた時、マナーモードの携帯電話にご家族から訃報・留守電が届いた。休憩時間に留守電を確認して、しばらくは一昨年の暮れに山口の病床で握った彼の手が、力強く握り返してくれたことを昨日のように思い出していた。

1971年11月 東京での実務修習は正月を挟んで、前後三ヶ月に及ぶものであった。その会場で(故)武田正雄、(故)岩崎与夫、桜井誠三、新見  葵、法澤智機、小山光男、伊藤暢昭、三浦弘光などというその後長い付き合いが始まる同学同遊の知遇を得た。

酒席に集まれば、岩崎、新見他はマ-ジャン、武田と桜井は果てしない論争を始めたものである。 かく言う茫猿は、武田・桜井争論に付いて行けず、岩崎・新見・法澤の雀卓には力及ばず、論争を聞くに疲れたら五番目か六番目の雀卓士となり、雀卓から弾かれたら論争の聞き役に戻るというテイタラクだったことを思い出す。

桜井・武田論争は、桜井が矛で武田が盾だったと思い出す。あくまでも鋭く貫き通す桜井の矛、あくまでも柔らかく躱し通す武田の盾である。茫猿は矛と盾の狭間で彷徨っていた。

2009年3月4日《山口に彼を訪ねた折の記事より》
その夜の小郡の酒場にて、話題は山頭火から金子みすゞに及び、鰯の大漁に湧く浜と、とむらいに悲しむ海のなかとの対比が何やら我が業界を暗示しているなどという哀しいオチまでつきました。

2016年12月11日《病臥する彼を見舞った折の記事より》
26歳のとき、不動産鑑定士三次試験第七期実務演習があった。そこで彼に出会ったのである。彼は二歳年長の28歳だった。ともに給料の安い鑑定事務所見習い生だったから、珈琲一杯で何時間も語り合ったり、神田の古本屋街を渉猟したりしていた。

今にして思えば、彼の舌を巻く博識と読書量そして悠揚迫らざる風格は私に大きな影響を与え、彼との長い交流は私に不動産鑑定士として生きる心構えを育んでくれたと思っている。その彼が病床に伏して二年近くになる。

奥様からの賀状添え書きなどでは、寝たきりで会話も無いとのことである。一度は見舞いたいと思ってはいたが、長い病臥であるから迷惑に思われるかもしれない。それでもお会いしたいと手紙を差し上げたところ、奥様からは快諾のお返事をいただいた。

病床の彼は、それほどやつれた様子もなく、療養のために五分刈りにそろえた髪のせいもあってか力強くも見えた。「ギフのモリシマです。わかりますか?」と、彼の手を握りながら話せば、力強く握り返してもくれる。何やかやと話しかけながら、一時間近く病室にいるあいだも、眠ることなく枕から頭を上げて私を見つめていてくれた。

若き日の武田君を写真から偲びます。(左)長良川鵜飼舟にて、画面右ランニング姿、まだ三十代でした。(中左)犬山市明治村にて、後列右から二人目(中右)山口市瑠璃光寺にて、中央が武田氏、左が故岩崎氏、五十代になっていた。(右)2012/05 持病はあるものの、大阪で開かれたREA7の集まりに参加してくれた武田氏。画面前列左から、伊藤、武田、新見、桜井、後列左から三浦、法澤、そして茫猿。 《写真はサムネイルです。クリックすれば拡大されます。》
     

終わりに、1999年3月20日 日鑑協・会長選挙の折に彼から頂いた推薦状を載せます。行間からは、当時の鑑定業界によせる彼の思いが溢れてくる。
【森島君を推す】

《2018/03/19  追記》
いつの頃だったか、もう二十年も前のことになるだろう。武田くんが我が鄙里を訪ねてきてくれたことがある。彼を庭先から雑木林に案内していたら、「著莪が咲いてるね」と言います。茫猿にしてみれば、毎年の初夏の頃、木陰に咲く見慣れた花ですが、名前は知りませんでした。彼に花の名を教えてもらいました。(2017/04/21 撮影のシャガ)

 

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