超越と実存

二月末の記事「氷雨に読み伊吹颪(おろし)に読む」では、宮部みゆき、東野圭吾、高村薫などのエンターテインメント書籍について書いた。高村薫はエンタメと云うにはいささか重いものがあるにしてもジャンルは社会派推理小説であろう。この記事ではズシンと手重みのする本を取り上げてみる。


標題に掲げたのは恐山の禅僧・南直哉師の新刊書名(新潮社)である。「超越と実存」は書名から察せられるように、さっさと斜めに読むことなどできない本である。一頁読み進んで二頁戻るような読み方を余儀なくさせる本である。例えば冒頭にしてからこうである。

人間は「無常」で「無我」であるにもかかわらず、「自己」として常に同一であると錯覚している。還暦の「自分」と三歳の「自分」は、「見かけ」は違っても「同じ自分」だと認識している(それ以外に人間としての在り様はない)。その同一性に根拠があると思っている。この根源的な妄想が「無明」と言われるものである。《超越と実存 45頁》

「超越と実存」は恐山の禅僧・南直哉師の新刊書(新潮社)である。
高村薫氏の書評を引用する
真理など求めていないと言い切り、「死とは何か」「私が私である根拠は何か」と問い続けることがそのまま「無常」となり、実存となっているという南直哉師の仏教観もまた、尋常ではない。

師はものすごい総括をしてみせる。「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、というのである。「悟り」も「涅槃」も認識不能だから、「自己」は仏にはなれない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。
とはいえ、こんな文章に触れて、何か腑に落ちたように感じるのも錯覚ではあるのだろう。いかにしても言語を離れられない「邪見驕慢の悪衆生」を前に、現代の禅僧はまたしても手が届きそうで届かない仏の有りようを簡潔に提示して自若泰然としている。《引用終わり》

慌てて読みきらずに時間をかけて「超越とはなんぞや」、「実存とはなんぞや」と問いつつ読み進めてゆこうと考えている。けれど、読み終えたところで、なにかを得ることは無かろう。得るという言い方が拙ければ、死生観が変わるというものでもなさそうである。門前の小僧にすらなれず、本来無記であるはずなのに似非”悟り”的騙りがオチであろう。

空は快晴であるが風は強い。
せっかくの梅の香りが吹き飛ばされている。
雲を払った伊吹山は美しい。雨上がりの筍ならぬ土筆である。
春はまた一歩近ずいた。

2018/03/03 学生時代からの友人松田君を見舞う。術後半月を経過し予後は順調であり、近く退院するとのことである。これからリハビリに専念すれば半年後くらいにはゴルフも可能という。 とは言っても、七十を超えてからの人工心肺を使う手術は流石にこたえたようで、やつれも見えたし、話す声もいまいち元気がなさそうだった。

見舞いを終えてから、彼が入院する府大病院(河原町荒神口)を出て、出町桝形で花を買い求め、博一の墓所のある寺町鞍馬口まで歩いた。陽射しは暖かだったし、墓所から仰ぐ比叡山もきれいだったから、良い墓参りができた。(03/02)ファイナル・セミナー、弔報受電、(03/03)入院見舞い、墓参と続く二日間は、ズシリと疲れを感じるものだった。
  

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