高野山にて笹麩と桜

2018/04/13 桜旅二日目は高野山へ向かうのである。じつは今回の桜旅を企てたのは三月初めの頃である。最初は吉野山と高野山を駆け足で巡ろうと考えていた。吉野山なれば下の千本から開花し始めて奥の千本に至るまで半月ほどの間にどこかの桜に恵まれるだろうと考えてのことである。そこで大阪難波を起点にして吉野山と、かねてから訪ねたかった高野山を巡ろうと考えていた。しかし二日間で吉野と高野山はいかにも強行日程であるから、造幣局と吉野山の桜という予定に変えていた。ところが、三月下旬からのバカ陽気で、4/9現在で吉野山の桜は奥の千本も散り初めということである。

そこで、造幣局通り抜けの翌日は吉野山へ向かわずに、高野山へと行先を変えるのである。北浜の宿を出て淀屋橋に向かい、地下鉄御堂筋線難波駅にて乗り換えて南海電鉄高野山線の乗客となるのである。ホテル直近の地下鉄北浜駅から堺筋線日本橋駅へ出て南海難波駅まで歩くという手もあるが、日本橋から難波駅への道筋が不案内だから地下鉄難波駅から南海難波駅という無難なルートを採用するのである。前日に家人にかけられた認知症発症の疑いに懲りて、早朝から地下鉄路線や南海線をよく調べて準備怠り無くしたのである。

《南海電鉄高野線》
南海電鉄難波駅構内では関西空港へ向かう特急ラピートに出会えた。このラピートには乗る機会もなかろうが、正面の顔つきが鉄人28号のごとく精悍である。

乗車した南海高野線特急こうや。真言密教の聖地にふさわしく、難波(難場)から発つ特急の終着駅は極楽橋である。極楽橋からケーブルかーで行く先は高野(荒野)なのである。

極楽橋から高野山駅まで乗り継ぐケーブルカー。路線距離0.8km高低差330m斜度約30度であり、車内で何も掴まずに立っているのは難しい。極楽橋から地獄の急坂を荒野まで喘ぎ登るという按配である。

《奥之院から大門まで》
南海難波駅で買い求めた高野山・世界遺産切符は、難波から極楽寺まで1時間24分の往復特急乗車券と極楽寺から高野山までのケーブルカー往復、そして高野山内バスフリー乗車券のセットである。他には一人二枚のお土産引換券も付いている。我等夫婦がお土産引換券でいただいたのは「笹巻き麩」と「胡麻豆腐」である。

山内バスのフリー乗車券があることから、足弱な家人のことを慮り(思い計り忖度し)、ケーブル高野山駅から山内バスにて奥之院口一の橋に到るのである。本来ならば、ここから奥之院まで約2kmの参道を登るところであるが、ここは足弱女性優先で緩やかな降り坂道を道々の塔頭寺院境内の桜を愛でながら、金剛峰寺へと辿るのである。

奥之院口一の橋付近より参道杉木立ちを撮る。「この先は貴方お一人で」と家人は言うけれど、片道2km40分の山道である。さらに数知れない墓所や祖廟を拝観しながらの往復は二時間では無理で、どう考えても三時間は茶店で待たせることになろう。待たせた後の始末と奥之院参道拝観とを天秤にかければ、拝観は割愛するに如かずである。かねてより見切り千両を信条とする茫猿なのである。

塔頭境内の満開の山桜、高野槙との対比が美しい。さらに驚かされるのは金剛峰寺をはじめ多くの塔頭本堂が檜皮葺き(ヒワダブキ)であることである。手間も費用もかかることであろうに、四方を山林に囲まれるとはいえ、高野山の財力がうかがわれる。

高野山の桜はそれほどに期待していなかった。ガイドサイトにも随所に桜が有るとは書かれるが桜の名所扱いはされていない。むしろ紅葉の名所である。けれどそれぞれ歴史ある塔頭毎に一、二本の山桜や枝垂れ桜が大切にされているし、この日の天候にも恵まれた。快晴ながら標高800mの山上だから吹く風は心地よいし、雲一つない空の青さに花の色が際立つのである。高野槙の緑、檜皮葺きの渋茶、そして空の蒼に映える山桜、この日この桜に出逢えたことが全てだ。

金剛峰寺門前のしだれ桜、桜としては取立ててのこともないが、金剛峰寺の良い絵が撮れていないので、この絵を載せる。枝垂れ桜、手水用(結界を示す?)の水桶、そして寺門のワンカットである。

奥之院祖廟をはじめ見処もお詣り処も数知れない高野山であるが、許された日程は半日、足弱な家人を気遣いながらの道中である。金剛峰寺も壇場伽藍も朱印をいただくのが精々で、寺内拝観は割愛するのである。それでも金剛峰寺から壇場伽藍を経由して西の端、大門まで約3kmを歩き通すことができたのである。

お土産引換券や割引券対象店舗の品定めをしつつ、昼食をいただき珈琲を飲みながら、引き換えたお土産を店先でいただきながらの緩い降り坂道である。引換券・割引券付き世界遺産切符が有ればこそのことである。

※笹麩胡麻豆腐に惹かれての高野詣に一句
山ざくら 溶けゆく空や 手に笹麩 (茫猿)

《真言密教の聖地、高野山》
面積137.03平方キロメートルの町域であるが、その90%以上は山林である。和歌山県伊都郡の東南高地に位置し、東南部は奈良県、南西部はかつらぎ町、北部は真田幸村隠棲の九度山町、紀ノ川が流れる橋本市と接している。 四囲は海抜800~1,100m級の連峰が累積し、平均気温10.4度、年間降水量約2,000mmに達する。 この条件のもと、霊峰高野山を中心として大小あわせて19の地区が山あいの狭小な平地に点在する、特異な形態の町である。

およそ1200年前の高野山開創から明治初年まで寺領として管理され、明治22年4月、町村制の施行により高野村となり、その後に町制を施行している。町の中心である高野山上は、町人口の約70%を占め、産業、文化、経済の中心地であり、またわが国有数の山岳仏都、観光の町として発展しているが、他の地区は過疎化状態にある。 (以上は高野町サイトより引用する)

法隆寺や比叡山などの著名寺院は寺院境内地が所在し、その門前に町家が門前町を形成するのが通例であるが、高野山は「一山(いっさん)境内地」として山内の全てが金剛峯寺の境内である。金剛峰寺を総本山として山中に開かれた宗教都市なのである。高野山街区の西端には高野山の正門にあたる大門(重文)があり、地区東端には奥の院への入口である一の橋がある。(写真は大門)

寺域中央に総本山金剛峯寺と壇場伽藍が所在し、壇場伽藍には根本大塔と金堂が位置する。金剛峰寺と壇場伽藍を取り囲んで117の塔頭寺院が建ち並び、うち52ヶ寺は宿坊として参詣者に宿を提供している。それらのなかに町家とされる店舗や一般住宅そして町役場や消防署などが点在して宗教都市高野山を形成している。

宗教都市高野町は弘法大師空海の開創以来、1200 年の歴史と伝統が息づく真言宗の聖地“高野山”を中心とした、歴史と文化、豊かな自然を有する町であり、町の将来像を「歴史と文化を守り伝える“こころ”豊かな高野町」と定めている。町人口は、1960年代は9000人を維持していたが、現在は3300人と減少し過疎化が止まらない。

高野山・空海と比叡山・最澄はよく並び称される。比叡山は信長により焼き討ちにあったが、高野山は近接の根来寺が焼かれたのに本能寺の変が起きて焼かれてはいない。幾つかの理由があるのだろうが、京大阪から一番遠かったということが攻略の順番を遅くさせたのであろう。また都市から遠いということが政治との関わりを少なくさせてもいたであろう。 同時に京大阪からも温泉等の観光地からも遠いがゆえに、参詣者宿泊用の宿坊を発達させ寺内町を大きくさせて行ったのであろう。

高野町プロフィールサイト
高野山真言宗総本山金剛峰寺公式サイト
高野山宿坊協会

 

 

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