鄙里は緑なりき-2

04/25(水)入院して五日目になる。いささか退屈になってきたと云うことは、回復の兆しが見えてきたと云うことだろうが、まだ口は回らないし水はストローがないと上手く飲めない。

04/26(木)午後に点滴治療が終了する。心電図モニターを外し、身体をタオルで拭いてもらう。背中をナースに任せ、腹は自分で拭く、気持ち良い。

点滴《天敵》チューブの無い自由になった身体で病院前の「薄墨桜」を眺めにゆく。作業療法士の付き添いを伴ってである。

この淡墨桜については2010年4月24日 に「薄墨葉桜」と題する記事を載せている。母が検査入院した時の記事であり、母はこの二週間後に自宅で逝った。
「大垣市民病院の前庭には若木の桜が植えてある。今朝枝振りの勢いに惹かれてよくよく眺めたら「淡墨桜」の名札が掛けてある。 根尾の薄墨桜から実生で殖やしたものであろうと思われる。 花の盛りを見逃したのは心残りだが、桜は明年も在ることだろう。今日から大型連休突入である。世間は休みを楽しめる人たちばかりではなさそうだが、先ずは今を楽しもうと思う。」

あれから八年、母の付き添いで眺めた薄墨葉桜を、今は自らが入院して眺めている。桜は八年間で随分と成長したように思う。

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04/27(金)南北朝鮮の首脳会談が板門店で行われる。病床でテレビのライブ中継を見入る。韓国の文在寅大統領と会談する北朝鮮の金王朝三代目・金正恩朝鮮労働党委員長を眺めていて、(メモによれば)何の脈略も無く岐阜県海津市・高須松平藩の幕末四兄弟を思い出した。

尾張徳川家の支藩・高須松平家の第十代藩主松平義建の四人の息子たちのことである。次男:慶勝 尾張徳川家を継ぐ、五男:茂栄 高須藩主(義比)、七男:容保 会津藩会津松平家を継ぐ、八男:定敬 桑名藩久松松平家を継ぐ、そうそうたるメンバーである。尾張徳川家:慶勝は尾張藩佐幕派弾圧事件(青松葉事件)を起こす。朝敵となった弟たち会津松平家:容保(京都守護職)、桑名久松松平家:定敬(京都所司代)とは立場を異にする。

病床でのメモを読み返してみても、なぜ高須四兄弟を思い浮かべたのかわからない。病床にいるから「《死床の》守り刀」を思い浮かべ、我が家の守り刀に刻くされる葵紋から連想したのか、それとも守り刀の由来に高須松平藩がなにがしか関係するかもしれないからか。脈絡も無いとは、こう云うことか、今はもう何も思い出せない。

午後に入浴許可が出る。シャワーを浴びる。

04/28(土)病院も連休体制に入る。緊急でなければ、検査も治療も休みとなる。スタッフからは外出や一時帰宅を勧められるが、1日と2日に検査の予定が組まれているし、既に主治医が休暇に入っているので、許可を得ることができず、連休も病院暮らしである。

04/29(日) 1日と2日の検査を終えたら、3日に退院の予定が示される。

この夜から同室の患者三名がリハビリ転院し、夕刻に一人、夜九時に一人、翌日に一名の患者が入室する。三名ともに言語不明瞭、下肢麻痺、尿取りパットまたはオムツを使用。食事も(ミキサー流動食)介護を受けているようである。カーテンで仕切られているから、同室といえども様子を見ることは無い。家族や看護師の会話から推量するだけである。

自分は幸いにして軽症で済んだけれど、一年以内に多いと云う再発をすれば、同じ状態になるのだと、否応無く思い知らされる。中村、村北、佳宏、武田のいずれも似たような症状だったが、相対する自分は健康体だった。今は比較軽症といえども病床にあるし、再発すれば言語障害、四肢麻痺、生きる屍を晒すことになるのだと、痰が喉に絡み、絶え間なくアーウーと声をあげ、間断なくナースコールが押される病室で眠れない夜を過ごしている。

◎胃ろう、呼吸器装着、栄養剤点滴などの延命治療は謝絶する意思を明確にする書類を改めて作り直し、仏壇に納めておこうと考える。《帰宅後に、早速に作って仏壇に納めた。》

◎年賀状は「賀詞欠礼葉書」を出そう。暑中見舞い、寒中見舞い、桜だより、紅葉だよりに替えようと考える。まだ先のことだが、晩秋の頃には鄙里の紅葉便りをもって賀詞欠礼の挨拶としよう。

◎畑および野良作業を軽減化する方法を考えよう。さしずめ連休明けから梅雨の頃にかけて欠かせない防除作業について、エンジン機での移動は疲れるから、「マキタのバッテリー噴霧器」の購入を検討しよう。一度機に作業を行わず、疲れを溜めないように少しずつ少しずつ行うことにしよう。

05/03(木)05/02 am10時よりの24時間心電図モニター検査が終わり、退院許可が出る。担当の看護師に礼を述べ挨拶をして、病院前のバス停より定期バスに乗る。《お迎えは無いのですかと問われるから、家人は病院通いで疲れ切っています。少しでも負担をかけないようにしないと、まだまだ先は長そうですからと答えた。》

終着輪之内文化会館前停までは、約35分である。帰りきた鄙里は緑また緑である。ヒラドとボタンは終わっていたが、もうすぐに芍薬と皐月が咲くだろう。石楠花がまだ咲き残っている。見慣れた景色であるが、旅から戻ればいつも感慨ひとしおである。まして退院、それも危うく死線よりの帰還である。

軽症で治ったこと、早く治療に取りかかれたことから、親しくなった作業療法士とは病棟内をグルグル巡りながら、様々な話をした。会話の訓練と云うことで、倍以上年長者である特権を活かす人生訓話などもした。先に◎印の項目もその一つであり、次もそうだ。時にブラックジョークを心掛けて話していた。《リハビリ室で、呂律の回らない黒い冗句を言い、死に方を話すなんて、嫌な患者だ。》

年齢的にも平均的健康寿命(75歳)は満了に近いことであろうし、血圧、血糖値、動脈硬化などは加齢とともに数値が増し、脳梗塞再発のリスクも高くなってゆくことであろう。何よりも平均余命満了(80歳)まで残り五年ほどである。如何に生きるかよりも、如何に死ぬかをもっと真面目に考えなければならなくなったと云うことである。とはいえ、生き方と云うものは多少はなんとかなるけれど、死に方は思うに任せない。来りくるであろう死を淡々と受け止めるしか他ないことであろう。

もう一点、入院中はSNSの発信は途絶えていた。スマホを利用しないから、SNSを見ることも無かった。これを機会にSNSの発信は全て止める。「鄙からの発信」だけは継続する予定だが、実は近く通算記事数が大台に乗る予定である。その後の「鄙からの発信」をどうするかは、その時に(来月か再来月)改めて考えてみようと思う。ただ、「鄙からの発信」の有り様はすでに変わってしまっているから、今更なんだと思うけれど。

《2018/05/05 追記》このサイトを読んでくれている方から、コメントやメールを戴いた。電話も戴いているが、電話で話すのはまだ少し辛いので電話には出ない。騒がれるのが嫌だからSNSの発信は止めた。「鄙からの発信」にしても関連記事を掲載するかどうか多少は迷ったけれど、もう読者数も少ないことであろうし、自らの備忘録ならびに家族への報告という意味で記事にするのである。

「読者諸兄姉へ」  ほぼ日常生活に復帰しています。寝込んではいませんから、病人姿を期待いただくとがっかりさせます。

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鄙里は緑なりき-2 への2件のフィードバック

  1. 赤堀壽宏 のコメント:

    造幣局の通り抜け、高野山と元気でご活躍、鄙里の雑木林が笑うと、しかも筍飯。
    いささかうらやんでいたところです。お身体を大切に、とにかく互いに生き延びましょう。未来はAIとか楽しそうです。とにかく互いに生き延びましょう。お身体を大切に。

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