野バラの棘

昨日、亡き母の実家で叔母(義理仲)の三回忌法要にお参りした。そのお斎でのこと、創作料理とは称するもののあまりにも手を加え弄りすぎで、素材の風味も良さも何処へやらという料理に辟易し、皿数の多さもあったから後半の何皿かを殆ど手付かずで残していたら、相席のどなたかに(叔母方のどなたかであろうが、初対面とおぼしき方)何やらたしなめられた。

そこで、よせばいのに余計なお世話と一言、「この歳になると、ワガママを通させていただいております。必要以上には食べないのです。箸を付けたくないと思えば手を出しません。勿体無いとは存じますが。」《なお、お酒は頂いておりません。》

「そういうことなら、空折りをもらって持ち帰ったら如何ですか。」「いいえ、この料理は持ち帰りは無理でしょうし、我が家は老夫婦暮らしですから、持ち帰っても生ゴミを増やすだけです。」《なお、最近は持ち帰りはご遠慮くださいというお店が増えている。》

これでお終いにすれば良いのに、相席の御仁の手にあったこれ見よがしの”ナックルダスター(メリケン)”もどきの趣味の悪い指輪のせいで、どこか虫の居所が悪かったのか、「この頃では、三欠くを旨として生きております。見栄カク、恥カク、義理カクです。」、「また毎朝に”如何に死ぬか”を考えるようにしております。」

敵さんもサルモノで「まだ七十代とお若く見えるのに、手回しの良いことで!」、「いいえ、常日頃に考えておりますと、八十にも至れば少しはましになろうかと思ってます。(向席の臨済宗和尚に)如何でしょうかね、和尚様」《口は禍の元と知っているのに、相変わらぬ棘ある野バラぶりである。》

帰宅してから、塀際の空きスペースに植えてある野バラが大きく伸びて道路にはみ出し、棘が気になり出しているから、納屋の隅に放ってあった廃材の園芸パイプなどでちょっとした囲いを作って見た。まあまあのオブジェが出来たし、棘が通学児童の邪魔にもならないだろうと自画自賛する。秋になれば、たわわに実らせている実が紅く色づいて観られる景色となるであろう。 この野バラは雑木林のなかから掘り起こし、塀際の空きスペースに植えたものです。それから六年、毎春にはたくさんの花を咲かせます。雑木であっても、然るべく咲く場所を与え、それなりの育成をしてやれば、観賞対象に変わり得ると云えば、なにやら教訓めきますが、野薔薇こそ「粗にして野なれど、卑にあらず」なのであろう。《花の写真は2016.05.14撮影》

夏の花が咲き出した。木槿に夾竹桃である。ダリアも開き始めた。
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創作料理と称するもの総てがそうだというつもりは無い。何より創作料理と称するもの総てを口にしたわけでは無い。得てして正統派の修行を積んでいない料理人が奇をてらって”創作料理とか無国籍料理”と称したがる傾向があるように思う。料理の真髄は素材選びにあり、選んだ素材を如何に生かしきるかにあろうと”鄙の草深包丁人”は常々考えている。昨日の料理、一言で評すれば茫猿には塩辛かった。《この記事、No.2998》

 

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野バラの棘 への2件のフィードバック

  1. ドクター・イシマ のコメント:

    女子と小人養い難し。このナックルバスターのばあさん女子、まったくよけいなお世話であります。いたく共感いたしました。面識なしの通りすがりのネット民です。茫猿殿のブログ時折拝読致しております。刺ある野バラから「粗にして野なれど、卑にあらず」までの展開、お見事でございます。いたく感銘致しました。それでは妄言失礼いたします。

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