先が見えてきたか旅支度

先号記事からいつの間にやら二週間が過ぎ、鄙里は秋の気配が濃くなってきた。続く暑熱のなか、土手の草刈りをウカと先延ばしていたら彼岸花が咲き始めた。ウオシュレットの洗浄水が冷っこく感じられる朝に、サイトの記事下書きを掘り返してみたら、七月初めの原稿が目に留まり推敲を始める。これとてもアリバイ証明『マダ生きている』である。

このサイトは1999年の一月スタートで、もうすぐ20年が経過する。当初は当時の鑑定協会会長選挙に際して、選挙ツールとしてスタートしたのである。その後は業界に物申すサイトだった。サイト・カテゴリーも不動産鑑定関連が半数を今も占めている。茫猿遠吠を標榜し、鄙の茫け猿が遠吠すると嘯いていた。遠吠えだけでは角が立ちすぎるから只管打坐も並んで惹句としたのである。

《会長選挙の結果及びツールとしての「鄙からの発信」の効果については「一石を投じることはできたか 投稿日:  」 他の記事を参照して下さい。》

その後の「鄙からの発信」は、不動産鑑定業界における茫猿の立ち位置の変化に伴って記事内容もサイトの性格も徐々に変わっていった。特に、2009年に母の罹病が判ったことから、事務所の自宅移転を行い両親の介護を最優先するようになった。この頃から「母の旅支度」と題する非公開の日記も記している。2010年3月から2011年3月頃まではほぼ毎日、時には日に何回も記されているが、最近は間遠というよりも、すっかりご無沙汰である。

この二つの記録を、今になってとても得難いものに思っている。折々に振り返って読み返す度毎に、記録が残されていることがとても嬉しく有り難く思える。最近のことすら記憶に留まらない年齢になっているから、8年前の事柄とはいえ既に記憶の澱の底に沈んでいる。読み返せば、その澱を掘り返して、ああそうだったかとも、いいえそうだったのだとも蘇ってくる。

くどくなる、気短になる、ぐちになる
 思いつくこと みな古くなる
 聞きたがる、死にともながる、淋しがる
 出しゃばりたがる、世話焼きたがる
 又しても同じ話に孫ほめる
 達者自慢に人をあなどる』

2006/11に引用する「横井也有・鶉衣」の、実も蓋もなく老醜を揶揄する詩である。初出(2005/03)の頃に較べて、随分と素直に腑に落ちるようになりましたと記している。たかだか一年半でそんな感慨を言うなど、思い当たることが増えたか減ったかと自問自答している。けれども意味もなく腑に落ちることを増やさないようにと気張るのは、心身に悪いように思えるとも記している。十二年も経て、さて如何に老いたかと惟う朝である。

暑熱と日照りのせいだろうか、季節外れに木瓜の花が咲いていた。

母が癌告知を受けたのは彼女が87歳の時、父が不整脈の診断を受けてペースメーカーを入れた年齢は正確には記憶していないが、亡くなる頃には二度目の電池交換時期が近づいていたことから70代末か80代初めのことであろう。それらの歳まであと数年前後となっていることに改めて気づかされる。

そして今更ではあるが、両親を懐かしく誇りにも思うのである。今や嫌なことは記憶の澱の底から浮かばず、良い思い出だけが残っている。90がまぢかになるまで、食事も排泄も自分のことは自分でして、眠るように亡くなった母である。食事が摂れなくなり胃瘻も点滴も拒否し栄養失調から老衰に移行し、終末期には意識を混濁させ痛みも感じなくなって優しく穏やかに逝った母である。 97の父の最後を看取ることは叶わなかったけれど、食事だよと声掛けた父は穏やかな寝顔で既に逝っていた。

特に人に誇るような何かを為した二人ではない。でも二人の息子を育て上げ、所帯を持たせこの家屋敷を作り上げた。家内にとって良き舅、姑ではなかったし、近くに住んだ叔父夫婦にとって良き兄、兄嫁ではなかったかもしれない。でもそれなりに頼りになる舅姑であり兄夫婦であったであろうと思っている。

穏やかな晩年だった。静かな晩年だった。妻に先立たれて半年後には後を追うようにわずか数日の床に付いただけで旅だった父、見事としか言い様がない。できれば見習いたい理想とする、父母の晩年の過ごし方生き方であり逝き方なのである。

《追記》
駆け上るように全米オープンを優勝した「大坂なおみ」さん。全米オープン優勝の後すぐに東レパンパシフック大会で来日していることから、マスコミに異常消費されないかと気がかりである。

 

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