雨が二日も続くと所在がなくて、ロクなことを考えない。本を読み続けるのも、テレビを見続けるのも、衰えが気になる目によろしくない。只々ぼんやり過ごしていれば埒もないことを考える。記事間隔も二十日になったので、山茶花と菊の画像だけ載せておけばよいのだが、止せばいいのに何かを語ろうとするから埒もないことになる。
《埒もないこと》
『死』というものと真正面から向き合うようになったのは両親を送ってからであろうか。それでも、あの頃死はまだまだ他人事であった。四月の末に脳梗塞発症で緊急入院してからは、死はとても身近なものとなった。そして、死に至るまでの病床がどのようなものになるのか意識せざるを得なくなり、同時に死は恐怖を伴うようになった。
脳梗塞で四肢が麻痺した状態で病床にあれば、食事はおろか排泄までも介護者の介助なくしては生活できなくなる。そんな状態の患者とベッドを並べての入院生活を二週間も過ごしてみれば、隣の患者の症状を我が身に置き換えて否応無く意識せざるを得ない。
死の後に訪れるであろう深い闇、闇というよりも底の見えない空白にもある種の恐怖を感じるものがある。しかしそれよりも怖いのは、死が突然に訪れることなく、長い病床を経なければ死に至らない時に、その病床がどのようなものになるだろうかという怖れがある。意識さえ確かであれば、食事を控えて排泄量を少なくするという対処法も可能だろうが、とはいえ認知が不詳となった後の事など知ったことか。
《埒もない、言っても詮無い》
七十数年を経た人生のある時間を共にし、多くを語らなくても互いにわかり合える人が今や居なくなってしまった寂しさと、死に至るまでにくぐり抜けなければならないが、その正体が判らないことの怖さは、目の前にある深い暗闇と向き合う気分がする。とは言えとは言え、埒も無いし詮無いことだ。
《延命治療謝絶》
胃ろう、人工呼吸器、栄養剤点滴、透析などの一切の延命治療は謝絶します。私が意識不明となった場合には、延命的な治療は施すことなく、自然に命を全うすることを望みます。口から食べ物を摂ることができなくなれば、寿命が尽きるときだと考えます。 私の苦痛を緩和していただける治療であれば、喜んでお受けします。 ただし、昇圧薬や脳圧低下薬などの延命のための治療はやめてください。 (日付を入れ署名して仏壇に収めておく。)
《鄙里の黄葉》
紅葉ではなく黄葉なのである。鄙里の紅葉は霜月の末から師走にかけて色づく楓であり、今は南京櫨(ナンキンハゼ)、銀杏、欅(ケヤキ)、馬酔木などの黄葉の季節である。桜は台風でほとんどの葉を散らしており葉はない。満天星(ドウダン)は紅く色づいている。そして最低気温が十度を下回るようになり、山茶花が咲き始めた。
《賀状》もう止めてしまうか、大幅に枚数を減らすかと考えていた賀状だが、所用があって郵便局へ向かった折に、ついつい買い求めてしまった。せっかく買ったのだから、この暮れも賀状書きにいそしむことになる。さて文面をどうするか、これから思案がはじまる。
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