此の春も夜桜

世に名桜は数々ある。茫猿の住まいする近くでも、根尾の淡墨桜、長良の鵜飼桜、木曽長良背割堤の桜、墨俣犀川堤の桜、揖斐池田・霞間ヶ渓の桜、大榑川輪中堤桜などなど、挙げればきりがない。

それでも茫猿にしてみれば、我が鄙桜に替え得る桜はないのである。四十年近く前に我が手で植え、年毎に手塩にかけた桜ということもある。世に囃される染井吉野桜ではなく、やや遅れて若葉とともに白く咲き、やがて桜色に染まって散ってゆく山桜ということもある。《手塩にかけたとは、毎年幾度かは下草を刈り毛虫の防除を行ってきたことを云う》

《さまざまの こと思ひだす 桜かな》(芭蕉)
《手をあげて 此の世の友は 来たりけり》(三橋敏雄)
《このさくら 去年(こぞ)のさくらも このさくら》(茫猿)
《花影や 幾多の顔の 浮かぶ宵》(茫猿)
年毎にこれらの句が身に染み入るようになった。

開花(2019/03/29)して旬日を経て、ようやく満開になった鄙桜をライトアップした。父母亡き後、2011.3.11東日本大震災を経て、様々な人々への鎮魂の思いを寄せて、鄙桜をライトアップするのを恒例にしてきた。中江川の土手にある桜をライトアップしても我が家からの眺めは然程のものではないのである。自宅の外から眺めるクリスマスのイルミネーション飾りと同じことで、川の向こう岸からの闇に浮かぶ眺めがよいのである。

現代の名桜守り人佐野藤右衛門氏は言う「桜は、成長している最中は花があまり咲きませんのや。若い間は根をはり枝を伸ばし、大きくなることに力を使うんですわ。立派な花を咲かせるのはその後。人も一緒、花を咲かせるのは苦労したあとですな」

《また、かくも言う》 テレビやら新聞やら、「どこの桜がきれいですやろ」言うわな。きれいとか、きたないとかあんのか、言うねん、わしは。「そこの土地やから育つもの、そこで育ったものが一番きれいやぞ」ちうねん。

《そして、こう結ぶ》 木の背丈と枝の広がる幅は人工的に調整できるねん。切ったりしてな。けど、幹が太るのと、根の張るのは止めようがないねん。絶対止められへん。それを考えて配植していかんと、大変なことになるねん。やっぱ最低百年先まで考えとかな、具合が悪いわな。そやからだいたい我々の業界というのは世襲が多いわな。昔から「三代つきあえ」言うわ。

やっと樹齢四十年に達したくらいの我が鄙桜であるが、樹勢も樹高も悪くない。白い花が桜色になって散るさまも、浅い若緑の葉がしだいに緑色を濃くして行くさまも悪くない。今頃の若い葉と白い花弁のコントラストもグラデーションも好ましい。

藤右衛門翁の云う樹齢百年といえば六十年後のことである。そろそろ来年のことも覚束無くなりつつあるのに、十年後二十年後のことなど知れたものでは無い。でも、いつか孫たちだけでなく近在の人たちが我が陋屋の山桜をはじめ様々な花樹を愛でてくれたら嬉しいなと思うのである。私が亡きあと誰が管理してゆくのかと気にかけて下さる奇特な方も少なくない。けれども亡くなった後のことなど、それこそ知ったことではないのである。その時々で為るようになってゆくことであろう。

その頃に鄙桜はどのような姿をしているのだろうかと思い描くのも楽しい。鄙桜は山桜であるから、百年くらいでは若木からやっと壮年樹になったくらいだろう。山桜も大島桜も寒緋桜も御衣黄桜も幾本も植えてあるから、百年もすれば春は梅と桜と椿の花屋敷になっていることだろう。秋には楓や銀杏が紅葉を楽しませてくれることだろう。
《 さくら守 花観るときは 陰の人  》(詠み人知らず)

桜と言えば、やはり この歌か、山家集(西行)より三首
《願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃》
《花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に》
《仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば》

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