新楢山節考

鑑定業界の様々な事象を考えるときに最も問題だと思われるのは、少なからぬ鑑定士諸士に見られる「思考停止」と言わざるを得ない姿勢である。そしてこれらは現在の社会全般を覆う傾向と相似の関係にあると考えざるを得ないのである。


「後期高齢者」問題
後期高齢者という呼称は社会評論や統計処理において使用される世代区分呼称であったという。それを深い考えもなしに高齢者医療保険に採用したのであるが、批判されたら長寿医療保険と通称を変更するという。どうせなら、前期高齢者を還暦高齢者、後期高齢者を喜寿高齢者とでもいえばよいのにと思う。(もちろん冗句です。)  この問題の詳しい議論は他のサイトに任せるが、世間では「姥捨て山問題」というが、茫猿は新楢山節考と呼ばわろうと思う。つい最近に政府管掌健康保険から退職者国民健康保険に移行した茫猿としては、セクトを分けて世代間戦争をさせるつもりかと云うのである。名称をどのように変えようと中味が変わらねばそれは「朝三暮四」なのであり、名称変更を指示した福田総理と、それを唯々諾々と受け入れた桝添厚生労働大臣は、高みから国民を眺め愚弄するものと云えよう。 還暦後に長生きすれば医療費がかさみ年期支給額も増える、短命であれば本人負担も社会負担も軽減される、いわば悪魔の選択を国民に強いるものではないか。長寿が社会負担とならず、長寿者も社会も歓迎する社会施策や医療施策を探求するのが政治というものではないのかと思うのである。
「年金」問題
年期不明問題も予想された展開をしている。いずれ不明数千万件問題は曖昧なままに決着するのであろうというか、せざるを得ないであろう。この問題は年金制度のやたらな複雑さにあるという本質を追求しなければならない。なぜなら、公務員共済(公務員年金)にも、国会等議員年金にも不明問題は生じていないからである。年金の統合と制度の簡明化と同時に、今受け取る側(高齢者)と将来の受取り側(低齢者:若齢者)との互いの譲歩にあると考えるのである。すなわち高額所得者の支給停止、多額支給年金の累進逓減などを包括的に検討する時期にあると考えるのである。 政府は今になって「昨年の参議院選挙における全面解決というアナウンスは国民に誤解を与えた。」と陳謝しているが、当時に「全面解決は無理です。」と公約していたら、選挙結果は自公与党にとってもっと悲惨なものになっていただろう。 租税特別措置法や暫定税率など、やたらと複雑にしている事柄は疑ってかかるべきである。つまり、それで誰が得するのであろうかという疑問から始めるべきなのである。
ところでこの頃カーラジオでニュースを聞くと、功労賞(厚労省)とか門下生(文科省)とか財無償(財務省)と聞こえてならないのは、ひとり茫猿だけだろうか。罪作りな略称である。
「八戸の児童:晩翠わかば賞の詩」問題
八戸で土井晩翠わかば賞を受賞した詩を書いた児童が母親に殺されたという。(08/04/01発生)  この問題について、お涙頂戴的な情緒的取扱や親族間の借金問題に事件を矮小化する報道が多いが、ことの本質は世界的にみれば豊かな日本社会に広がる格差という貧困に起因するのであり、社会的連帯の輪からこぼれ落ちた貧困者の孤立化にある。

 「児童が授賞した詩・おかあさん」
おかあさんは  どこでもふわふわ
ほっぺは ぷにょぷにょ  ふくらはぎは ぽよぽよ
ふとももは ぼよん  うでは もちもち
おなかは 小人さんが  トランポリンをしたら
とおくへとんでいくくらい  はずんでいる
おかあさんは  とってもやわらかい
ぼくがさわったら
あたたかい 気もちいい  ベッドになってくれる

「森達也:思考停止の前に」
森達也という映像作家が「世界が完全に思考停止する前に」という本を上梓している。『鄙からの発信』読者には一度手にとってほしい本である。彼はものごとを一人称で考えようという。一般論的に主語をぼかして、例えば「世間は・・」とか、「社会は・・」などと言わずに、「私は・・・」と言おうという。
彼の話のなかで頷かされるというか、眼を開かせられるのは次のような一節である。
『ドキュメンタリーとかノンフィクションは客観的で、フィクションやドラマは主観的というのは誤解である。どんな事象も作家の編集を経たあとは主観である。例えばニュースでも、どの場面を放映するか、どちら側から放映するか、何も思想的背景を云うのでなくて右側からの画像か左側の画像を採用するかで印象は異なってくるのである。』
つまり、ノンフィクションといえども編集者の編集次第で如何様にも変わるというのである。ことがらを矮小化するつもりはないが、「船場吉兆」も「赤福餅」もどの場面を切り取るかで、視聴者が受け取る印象は真逆に変じるのであろう。豊かな日本から、パレスチナのガザ地区の人々を、チベットの人々を、海に沈む時を予感しておびえるミクロネシアの人々のことを、我々は一人称で考えたことがあろうか。
「靖国上映中止」
ドキュメンタリー映画・靖国の上映中止が問題となっている。外国人監督だから撮り得た映画というのも複雑なものがあるが、国会議員という公権力を背景に事前検閲まがいを行った人々に対して、またそれに付和雷同する人々に対して、何より鳥の羽音におびえる人々に対してとても複雑な思いがある。この問題も一人称で考えてみたいのである。近くの映画館で上映されたら観にゆきたいと思うのである。無関心でなく、先ず観ることから始まるのではなかろうか。
映画「靖国」については、鈴木邦男(一水会・顧問)氏のコメントが参考になるであろう。
『靖国神社を通し、を考える。「戦争と平和」を考える。何も知らなかった自分が恥ずかしい。厳しいが、愛がある。これは「愛日映画」だ!』
このことにからんで読み始めた書に「オーウェル著:1984年」がある。若い頃に斜めに読んだ記憶がかすかにあるが、改めてじっくりと読んでみたい。その上で今の世相を考え直してみたいのである。
「鈴木真砂女」
そんな日々では疲れるから、鈴木真砂女も並行して読んでいる。「銀座に生きる」、「鈴木真砂女の歳時記」などである。ほっと安らぐと同時に、明治女の背筋がピンと伸びた気骨を感じるのである。真砂女さんは5年前にお亡くなりになっていますが、生前にお店を訪ねたいと思いながら叶わなかったことをとても残念に思い今度上京したら何はさておいても「卯波」を訪ねたいと思っていましたら、先々月に「地上げ」で閉店になっていました。また一つ、「昭和は遠くなりにけり」です。
「無財の七布施」
あれやこれやと考えていたら、茫猿は何から始めるのか、秋月悌次郎には及びもつかない鞣革の人生ではあるが、それにつけても何を語ってゆけばよいのかと思わされる。
先々のこと、周りのことを考えたら、少し座を譲る、座を詰める「座布施」を思うのです。

「無財の七布施」
1.眼施(げんせ)  優しい眼差し(まなざし)
2.顔施(がんせ)  穏やかな微笑み顔 (和眼悦色施)
3.言施(げんせ)   思いやりのある言葉 (言辞施)
4.身施(しんせ)  身体をもって尽くす
5.心施(しんせ)  こころ配りり
6.座施(ざせ)   座や席を譲る (床座施)
7.房施(ぼうせ)  小さな居場所を提する (房舎施)

財貨を伴わなくともできる布施があり、布施はここから始まるといえる。何より布施は、「高みから布施をする。」のではなく、「お布施をさせて頂く。」のである。ここを間違えると布施が布施にならないのである。

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